人生は何度でもやり直せる


「人生は何度でもやり直せる」、これまでの人生で7~8回も転職し(自分でも回数がわからなくなっています<笑>)この言葉を体現してきた僕に、大学時代からの友人である島村さんから「転職する20代、30代の人に贈る言葉」というタイトルで文章を書いてくれないかという依頼があり、ゴールデンウイークのさ中、このコラムを書いています。

但し、転職する「20代、30代の人に」の所には、ちょっと注釈があります。これだけ転職を繰り返し、そして、これまで36年間ビジネスパーソンを続けてきてこの4月からも新しい仕事(大学の教員。実務系教員として、「経営」、「財務」、「経済」、そしてちょっとスペシフィック感ありですが、「スポーツ・マネジメント」を教えています)に就いた僕ですが、実は大学を卒業してから20年以上は一つの会社で働き、最初の転職は20代、30代をとっくに過ぎた45歳という遅い年齢だったので、20代、30代の人の心情に即した形でのアドバイスは出来ません。むしろ、あと3か月で還暦を迎える中年のオジサンから、これまでの35年に渡るビジネスライフを俯瞰したような視点で、ちょっとアドバイスめいた言葉を贈りたいと思うのです。

 

まずは僕自身の転職経験を簡単に書いておかなければなりますまい。

大学の経済学部を卒業し、さしてやりたい仕事も、夢や使命感があるわけでもない就職活動の中、偶々丸の内界隈で出会った大学の同級生から、「これから企業訪問するんだけど、一緒に行こうか」と誘われて、面談した人事部の人の人柄に好意を持ち、こちらもエラく気に入られて何となく入ってしまった保険会社、そこでは10年間以上株や債券や為替を売ったり買ったりという資産運用の最前線に立ち、1980年代バブル景気の恩恵と、その崩壊による兆円を超える巨額な損失と道連れの奈落の底への転落、心身共にズタズタになるというローラーコースターのような経験をしました。そして1990年代、皮肉にも見つけた「仕事上の使命感」は自分にも責任の一端があった経営不振からの「再生、経営改革」であり、その使命についても自分なりに決着をつけて、「もう会社のことは済んだことにして、あとは自分のためのビジネスライフ」を送ろうと考えて2000年に初めての転職先として外資系金融機関を選んだのでした。1980年代、1990年代と波瀾万丈みたいな人生に思われたわけですが、実は転職後のジェットコースターは、以前よりももっと振幅が大きく、かつ周期も極端に短い激烈なものだったのです。外資系で常務にまで上り詰めた後のITバブルの崩壊による戦力外通知、ベンチャービジネスへの転身、プロ野球球団再生、IT企業のCFO就任・・・目まぐるしく、運命に翻弄されるかの如く日々は過ぎて行き、早いときには7か月で次の会社に移る・・・というようなことすらありました。

その間、40代の半ばから50代後半までの、終身雇用的な働き方をしている人たちの場合は「もう先が見え、定年の準備が始まる」ような時期に、僕自身は日々「戦い」の中に身を置いて、常に己を全うしようとするが如きに完全アウエーともいうべき新しい会社の中で組織を強くする「経営改革」を志向しながら、ホームレスになることもなく企業社会で何とかサバイブしてきたのでした。

最初の転職から今に至る15年間、地べたに這いつくばりながら努力を重ねて知見を拡げ、他流試合のお蔭で、ありとあらゆるナレッジを引出しに貯めこむことが出来、またどんな境遇でも結果を出せる自信(要するに戦略的にひたすら努力さえすれば結果は出るはずだという開き直り、楽観)を得ることもできました。そして今度は貯めこんだナレッジと経験を若い人に教えることをライフワークとすべく、大学教員として学生の教育に全身全霊をかたむけることが新たな自分の使命となったのです。

 

僕自身の体験はこれくらいにして、本題である「贈る言葉」に移りたいと思います。35年の多岐に渡るビジネスライフの中から皆さんに参考になりそうなことを二つだけ書いておきましょう。

①ビジネスの中で、何十年も錆びつかないような「盤石なスキル」という物は存在しない。自分の経験の中でスキルを深く磨いておくことは極めて重要だが、インターネットの進化のような破壊的イノベーションによって、自分が苦労して極めたスキルが突然陳腐化する時代になってきている。スキルは一つではなく横にずらして拡げていくこと、そしてそうしたスキルよりむしろ、どんな仕事でも、どんな境遇になろうとも、身の回りの仕事や課題に真正面から向き合い、石にすがりついても何とか解決し、そのナレッジを身につけていこうとする努力(真面目さ)を何歳になっても持ち続けることが大事。

②学生時代の友人、社会に出てからの友人を大切にすること。ビジネスライクな関係ではなく、信頼し合い、困ったときには助けたいと心から思う友人を会社の垣根を越えて沢山持ち、常に自分の状況を曝け出して関係をキープしてきたことが、窮地に立ったとき、難題に直面したときにどれほど助けになったかわからない。勤めていた会社に何らかの理由で居られなくなったときにも親身になって考えてくれた友人たち・・・。数ある転職先の大半は(ヘッドハンターである友人も含め)友人からの紹介であった(※大学教員という今の仕事は友人からの紹介ではなく公募によるものです)。

 

今、正に転職しようとしている20代、30代の人たちには、僕自身の体験から得られた言葉を贈りたいと思います。

まず、仕事や会社に不満が鬱積していて「転職したら今よりは良くなるだろうな」と転職願望にある人には、まず「本当に今の仕事が嫌なのか」を胸に手を当てて考えてもらいたいと思います。安易な転職は後悔のもとだし、実際楽な転職という物はこの世の中にはないと言っても良いでしょう。僕自身何度かハローワークに(短期間ですが)通わざるを得ないこともありました。定職がなく職探しをしているとき、電車の中、仕事で疲れた顔をしているビジネスパーソンを見て、「あんた定職あることの有難さ、毎月月給がコンスタントに銀行口座に振り込まれることの有難さを知らないんだよな」と思ったことが何度でもあります。今やっている仕事を出来るだけ続けられるなら、それに越したことはないように思います。最初からキャリアアップで転職することを計画していた人を除き、転職する人は「本当に今いる会社・職場が嫌だから転職する」のであって、そうでないなら転職を今の日本人はしないものです。

しかし「本当に本当に、今いる会社が嫌になったのだったら」転職するのも良いでしょう。人生は二度ないのだし、どんなに苦労しても自分が選んだ途を行く方が意味のある人生であるように思います。人生には勝ちも負けもないと思っていますが、やらなかった後悔ほど人生の最後まで悔いとして残るものはないように思います。生きたいように生きる、それに勝る人生はないように思います。

 

※この文章を島村さんに見せたら、是非連載にしてくれないか、と言われました。新米大学教員で、何かと忙しい身ではありますが、「転職」や「就活」に関連して、これから1か月に一度程度、駄文を書いていこうかと思っています。

 

埼玉工業大学 人間社会学部情報社会学科 教授 小寺 昇二

 

 

第1回 就活の頃

 

僕が就職活動をしたのは、1978年のことです。

今大学の教員として3、4年生と就活のことをディスカッションすることがありますが、今の就活は昔に比べて非常に厳しい印象があります。実は昨年一人娘が就活だったので、近くで活動をつぶさに見ていたので、その過酷さには本当に驚かされました。

話を自分の経験に戻すと、1978年というのは第二次石油ショックの時代であり、石油価格の高騰を利用した総合商社のエゲツナイ大儲けが商社批判に繋がった時代でした。多少リベラルな志向から大学でマルクス経済学を専攻し(思想から入るマルクス主義経済学ではなく、資本主義を学問的に分析する学問であり、当時は今の「近代経済学」よりもメジャーな存在でした)、そして、さして「やりたいこと」もない身としては、消去法で、エゲツナイ業種は嫌だな、それから銀行員や公務員といった堅苦しい仕事も苦手(おっと、このコラム掲載のホームページは(株)公務員試験デシタネ。。。。ゴメン島村さん!)、よって、「メーカー」と「保険会社」を回っていました。「やりたいことは何なんだ?」と脅迫観念のように問われる今の風潮なら、間違いなく「物を考えていないボーとした学生」と言われてしまうでしょう。でもたとえ今だって、35年ビジネス経験のある人間としては、「ちょっと大学で勉強した位で、自分のやりたいことが見つかる」なんて言うのは稀なケースであって大概は社会に出て、色々経験して初めて「自分のやりたいこと」が見つかることが多いのだと思います。因みに僕が仕事上の使命感に初めて目覚めたのは前回書いたように35歳位のことだったし、「教育、人材育成で社会に貢献したい」という本当に自分が人生の使命を見つけたのは、最初の転職をして数年経った45歳半ばのことだったのですから。

またまた脇道に逸れたので、自分の就活のことに話を戻すと、第二次石油ショックで企業が採用数を絞ったことから結構厳しい就活だったわけですが、結局最後に「某フィルムメーカー」と「某保険会社」の二つから内定を得て、どっちにしようかな、という選択になりました。そのフィルムメーカーも保険会社もバブル崩壊、失われた10年、20年の荒波を何とか乗り越えて、現在では比較的良好な評価を得ているようです。「あの時フィルムメーカーに行っていたら・・・」と言う自問は、全くしたことがないと言うのは嘘になりますが、自分ではそういう自問は意味がないと思っているので、シリアスに考えたことはありません。保険会社で選んだことを比較感で肯定しているわけでもありません。人間は、後から考えれば必ず「正しい選択」あるいは言葉を換えれば「必然的な選択」を行っているのであり、自分で選択しているような気になっているだけで、本当はそういう選択をすることが運命づけられている・・・・何だか宗教がかっているかもしれませんが、経験的に言うと、過去の自分の経験は、全て必然であり、選んだ道では必然的に自分が乗り越えなければならなかったハードルが用意されていて、それを何とか乗り越えることによって自分は運命を切り拓いていくのだ、と思ってずっとやってきたのです。現に、選択したことが一旦は大大不正解であっても、実はその不正解な選択(辛い経験)の先には本当の正解が用意されている、そして振り返ると、あの不正解があったからこそ、その後の正解があったのだと気づかされる・・・そんな経験が二度や三度ではないのです。実は誰でも同じような経験をしているのですが、ただ目先の不幸に悲しみ、良いことが起これば喜んでいるだけであって、運命を振返って、不幸なことが起こった本当の意味を解釈したことがないから、僕のこうした感覚をわかってないだけなんだと思います。

因みに、その某フィルムメーカーも大きな経営改革を経験しており、もしそちらの会社を選んだとしても、きっと保険会社での後半と同じように経営改革に関与したのではないかと想像します。要するに、どこへ行っても同じ道しかなかったのではないかということなのです。

脇道に逸れまくったので(このコラムを「脇道を行く」という名前にしようかと島村さんに提案することにしました。常に会社でもエリートに歩むメインストリームではなく、異端の道ばかりを歩んできたので、このネーミング気に入っています。却下されると思いますが・・・)、字数が少なくなったため、今就活を行っている、あるいは行おうとしている若い人たちに以下の2点をアドバイスしておきたいと思います(大学で今言っていることでもあります)。

①大学生が知っている会社というのはかなり限定されていて、知名度の高い会社に志望が集中する。昔々僕がやっていた相場の世界に「裏道に花あり」という格言があり、人気のある会社は超難関であってそこで競争するのは得策ではない。現在日本の上場会社は3,600社もあって僕が就活をしたときの2倍以上に増えています。中には「エ!これで上場しているの?」と思われるような弱小企業も存在するが、上場していれば企業情報も詳細にディスクローズされており、それなりに信頼感もある。企業のことに詳しい大人から情報を仕入れるなり、とにかく人気企業に集中しないことが肝要。企業の消長なんか本当にわからないもので、今良い会社が5年で破綻してしまうことだって珍しくない時代である。会社というものは自分を成長させてくれる「器」にしか過ぎないと割り切って、企業のブランドに過度に依存しないこと。

②就活というものは受験以上に若い人に負担をかけるものであることは事実。就活というものにあまり入れ込まずにクールに「成行きに任せる」という選択肢もあるが賛成しない。就活というものは、大学生(や高校生)が、社会に出る前に、自分自身を真面目に見つめ直し、社会というものの中で初めて揉まれる絶好の機会=「通過儀礼」であって、正面から必死に取り組むことが社会に出る準備になる。「お祈りメール」を何通ももらうことで初めて「仕事に就けることの有難さ」を認識できるのであるし、失敗のない人生なんて塩気の聞いていないボケた味の料理みたいなもの。

 

いずれにせよ、就活をやってい若い皆さん、健闘を「祈って」います!

 

※このコラムは現在所属している組織とは無関係です。言わずもがなですが。

 

第2回 社会人なりたての頃

 

大学を出て入った生命保険と言う業種は、当時は社会的にステータスも低く二流の業種でしたが、1970年代から80年代にかけて日本の経済的な成熟に伴う国民の豊かさの伸長と共に保険ニーズは拡大を続け、家計の余剰マネーが生命保険会社に流入したことによってもの凄い勢いで成長しかかる状況でありました。皆さんも話に聞いたことがあるでしょう「バブル経済」まっしぐらの日本の状況、その中での一つの象徴としての生命保険商品の販売増加、生命保険会社の資産膨張だったんです・・・皆さん若い世代は、物心のついた頃から「失われた20年」とか言われると、「またその話か。ウチらはバブルとか昭和とか知らないし、生まれた頃からずっと良くなかったから、『失われた』って言われてもワカンナイんだよ」と言われかねないでしょう。まあ、まあそう言わずに、皆さんにも少しは役立つ話かもしれないので、少しお付き合い下さいね。

僕が就職した1979年は第二次石油ショックのあおりを受けた不況の時期にあたり比較的就職環境が良くなかったため、通常なら他のより人気の高い会社に流れて内定後辞退する人材が滞留し、その保険会社では予定の230人程度の採用予定が実際の250人程度と読み間違えてしまっていたのでした。僕が配属されたのは、財務審査部という、膨張する資金(預かる保険料・・・保険金支払いまで資産運用して元金を増やさなければならない)の運用先である企業融資のための信用調査(貸倒れにならないかの調査)を行う部署でした。ところが、ここに配属された新人は僕以外にもう一人おり、彼は普通に「課」に所属して信用調査業務を行ったのに対し、僕は財務審査部付きということで課に所属せず、ルーティーンはないと言うのです。配属されて暫くして人事担当役員が財務審査の部長に話をしているのが聞こえてきてしまったのですが、「今度配属は2名だけど、正式な配属人員は1名、もう一人は『預かり』だ」と言うのです。まあ採用数を読み違えた余剰人員であることは間違いなく、その人選としては、よっぽど仕事が出来そうにないと思われたのか、あるいはその逆だったのか・・・今思えばかなり微妙なポジションでしたが、当時から万事能天気な性格から、「ふーん、そうなんだ。まあ会社の都合だし、俺には関係ないな」と気にしていませんでした。

そんなポジションのことよりも、もっと大変だったのは上司です。この御仁、9歳上の独身男性、社内では並ぶ者がいないダントツの勉強家で、尊敬するのはナチスのヒットラーと言うナショナリスト(と言うか国粋主義者)であり、かつ軍事オタクの方だったのです。まあ多分にポーズもあったとは思いますが・・・。頭はすこぶる優秀である上に性格は激烈で部下に厳しく、それまで仕えた部下たちは一人残らず体調を壊すか毛髪が薄くなるかといった具合で「撃墜王」と呼ばれていました。彼としては、自分が実行している厳しさを部下にも要求しているだけであり、加えてこの二流会社において世間に通用するような人間を育成したいという善意の思いが強かったのでしょう。配属一日目から、厳しい愛のムチは容赦なく、ある意味必死で「負けないゼ」と思って毎日戦っていたようなものでした。所謂マン・ツー・マンでのトレーニングだったわけですね。家に帰ってもゆったりすることなどほとんどなく仕事に関連した勉強をやっていた記憶があります。土日(当時はまだ土曜日も『ハンドン』と言って午前中は出社していました)や祝日も、時間の半分はスポーツ、趣味などで使っても、半分は勉強をする・・・という緊張感が途切れることのない1年を過ごしました。職場でも良く二人で面と向かって論争を繰り返し、周りの先輩たちはハラハラ見ていたようです(まあ、自分は感情抜きの論理と論理で戦っていただけなので、精神的にどうこう言う状態ではなかったのですが・・・)。修行のために僕が書いた調査レポートで一つ思い出があります。いつも真っ赤に添削されて返ってきて、その直しは常に正しく、必ずその直しに従って直すのですが、ある時「日本の・・・」という記述が「我が国の・・・」と直されていたのに、自分としては違和感があり、そのままにしていたら、次の直しでも同じように「我が国の・・・」と直され、それでもまた「日本の・・・」と直さずにいたらまた「我が国の・・・」と直され・・・ナショナリストと大学でマルクス経済学を学んだ部下との、こうしたやり取りは延々続き・・・僕の記憶では、「まあいっか」と僕が折れて、レポート完成となったのでした。

その上司との上司・部下関係は、彼の異動により終わり、2年目からはやはり優秀な、しかし温厚な上司の下で、1年目と同じような緊張感を持ちながらの新人時代を過ごしたのでした。2年の間に仕入れた知識は相当なものであり、また資格についてもいくつか取得しました。何より、勉強の面白さを初めて知ることが出来た予備校時代のように、「勉強する習慣」が会社に入ってからも復活し、社会の事象に関して高い視点で観ることができるようになったことは大きな収穫でした。入社2年が経った頃には、「同期の連中と話しても世の中のことを知らなすぎて物足りないな」と感じるようになり自分より6才位上の人位と話してようやく同じ土俵で話せる、などと(今から思えば不遜にも)考えていたものでした。

ところで入社するときに、自分に課した3つのタブーのことをお話ししましょう。それは、「ゴルフをしない、歴史小説を読まない、カラオケをしない」と言うものです。今で言う「KY」の確信犯ですね。ゴルフをして自分が偉くなった気でいるのも嫌だし、自分としてはサッカー(一応、今でもサッカーの現役、ということになっています)やテニスのようにお金がかからず激しい運動の方をやっていたいし、「面白すぎる」歴史小説ではなく、海外文学だとか読むのが辛いけれど実社会とは少し隔絶したところで自分を見つめたりしたいし、カラオケで自己陶酔するのも、そういう人を見るのもやりたくない・・・という、つまり「イージーには流れない」という気持ちからのタブーでした。今でこそ多少選んで歴史小説は読みますが、ゴルフはせず(今もサッカーやスポーツジム愛好家です)、カラオケも何年も行っていません。同僚と飲みに行くのも送別会とか忘年会といった最低限だし、二次会などもっての他で、帰宅するか、友人たちと会ったり、ということを励行していました。流されるのではなく、とにかく会社に左右されることなく意識的に自分の人生を生きていきたい・・・それが自分の気持ちであり、何かをしたいけど、それが何かわからずに、大学を出て何となくサラリーマンになった人間としてのささやかな反逆であり、矜持みたいなものだったのかもしれません。上記の3つのタブーを守る、付き合いの悪い宇宙人であったことから、これまでの36年間の社会人生活で、とにかく「時間」をたくさん手にすることが出来たし、「社畜」とは全く違う道を歩むことが出来ました。サッカーでも、若いころから各年代の代表に選出されて一流のコーチの言う通りにして結局フル代表には行きつけない過剰適応の「エリート」よりも、人の言うことを聞かない中田秀や、ドリブルを極めて一流になった香川などのように自分の頭で考え、自分のやりたいように生きた人間の方が大成することも多いようです。まあ僕自身は大成したわけではありませんが、自分をある程度貫いてきただけに悔いのない楽しい半生を生きさせてもらった、とは思っています。

それにしても、まだ社会人になったことになり学生の皆さんは驚くでしょうが、社会人、それもビジネスパーソンは本当に「勉強しない」のですよ。今、朝の通勤時間の電車でビジネスパーソンがどう時間を使っているか、良く見てみましょう。トロンとした目で眠っているか、携帯でゲームをしている人が如何に多いことか。恐らく1日で一番脳が柔軟に動く貴重な時間を無駄に使っているとしか思えません。僕のように必死に日経新聞を読んでいる人間など、1両に他に一人いるかどうかです。もちろん日経新聞が一番素晴らしいとは思いませんし(もっともっとレベルの高い人たちは、新聞なら海外のクオリティ・ペーパーを読んでいますし、ネットで効率的にもっと深い情報を入手しています)、そもそも満員電車で日経新聞を立ち読みするのはスペース的にかなりシンドく、強い精神力が要求されます。しかし、朝刊も夕刊も、平日も休日も、夏休みの分も・・・36年間基本的に全ての記事を(斜め読みも含め)読んできた人間としては、新聞を読まない人は貴重な情報収集のチャンスをみすみす逃してしまっていてもったいないなぁ、と思うのです。良く学生に言うのですが、「1日の日経新聞には親書1冊分の情報が詰まっている。1年間で365冊、10年で3650冊、36年では約1万冊の新書」ということになるのです。継続は力なり最初は「点」である知識は「線」に繋がり、いつしか「面」として知恵になっていくのだと思います。日経新聞を読んでいるは僕だけではありません。金融関係の人は大体全部読んでいますね。自分の業種にさしたる技術もビジネスモデルのない金融業は、インターミディエイター(媒介者)として、世の中のことや他業種のことを知らないと商売にならないという面があるからでしょう。

また脱線してしまいました。ビジネスパーソンが勉強をしないという話でした。大企業などでは、まだまだ社内の同僚と昼メシ食べて、夜も結構一緒に飲みに行く、ゴルフもやるのは会社の人、ということがあるそうです。夜飲みに行って、会社への不満、噂話、いつも同じ話題・・・グローバルな競争を行っている今、こんな社員はいずれスポイルされてしまうでしょう。僕は若いころは、大企業にいてもランチは出来るだけ同じ会社でも違う部署の人、そして社外の友人たちと一緒することにしていました。ランチ時も週に一度は社内で勉強会を主宰し、時々は社外の友人たちにその勉強会で講演してもらったりしていました。そんなことをしているともちろん人材育成にも貢献するのですが、情報収集、人脈作りと言う点でも大きな財産を築いてきたように思います。

 

さて、そんな風に2年間が経ったとき、「ロンドンでの研修」の話が突然降ってきたのです。この話は次回。

 

※上記に出てきたスパルタ上司とは、その後も何度か関わりがありました。25年前に起こったあることも、僕のビジネスパーソンとしての進路に大きな影響を与えたこともその一つです。その進路変更は、その後一つの会社の枠に収まらない見ようによってはエキサイティングな人生を歩むことになった最初の契機だったのですが、1年目の本気の育成努力、勉強し続ける習慣を授けてくれたことと同じように、その出来事について元上司に感謝している次第です。

人間の一生って色々あり、だから面白いのですよ。

 

 

第3回 突然の「ロンドン研修への指名」

 

最初に、前回「付き合いの悪い宇宙人」自賛とか「朝の通勤電車でトロンとした目で寝ている人」批判とかに反応された方も多かったようなので、「会社の同僚と飲みに行くこと」や、「朝の通勤電車での睡眠」の是非について、少し解説しておきたいと思います。

前者について、僕は「今いる会社が、あなたが会社を退職するような年まで安泰で、そこで退職するまで絶対に働いていくのだ」という強い確信があるなら、毎晩のように「社内営業」に専心するのも悪くはないとは思います。要するに、「自己啓発」とか「社外の人とのコネクション構築・維持」という(僕に言わせれば非常に大事な)「チャンス」を捨てて、社内浮遊術に全てを依存する道を選ぶのか、という選択肢の問題なのです。但し、このベット(賭け)は変化の激しい現代企業社会ではリスクの大きな選択となる可能性が高いでしょう。会社という大きな看板を捨てざるをえなくなったときに、「ピン」であるあなたが何が出来るのか、それを若い頃から準備していくことが、企業社会でのサバイバルと言う点では大事だと思うのです。昔部下だった人に会ったときに、「会社に入社された日に、小寺さんから『いつ会社から放り出されても食っていけるスキルを築いていけ!』と言われたことにビックリしました」と言われました。僕がまだ20代の頃のことだったようです。彼にそんなことを言ったことは全く覚えていないのですが、そう言ったということは、20代から自分自身常にそう思って仕事をしていたということなのだと思います。

後者の「通勤電車」の方は、明確に「寝てる場合じゃないよ」と言いたいところです。お金をもらっている、つまり「プロフェッショナル」なビジネスパーソンたるもの、前の晩から体調を整え、世間の動きに朝から敏感に反応し、フレッシュな頭で仕事に臨んでその日に行うことの作戦を立てていないなら、僕に言わせれば、会議で一言も発言しない輩と同様に、「給料泥棒」ではないかと罵倒(言葉がキツくて失礼)したくなるところです。

 

さてさて、それでは本題に入ります。2年間に渡る目の回るような修練のことを書いていたのでしたっけ。2年が経ったある日、会社内の事情通である先輩(後に常務に上り詰めた人格者)から、ポロっと「小寺、ロンドンに派遣されるんだね」(寝耳に水で「え!?」と反応)、「何だ、まだ知らないのか、言っちゃあいけなかったな(笑)」と言われたのです。

状況を多少客観的に記述すると以下です。

僕が社会に出た1979年以降、1980年代というのは、技術力を背景とした貿易収支の黒字拡大によって日本中が豊かになり、保険会社にも大量の資金が入って来る一方、保険料を運用する対象であった企業への融資が企業側も資金が潤沢であったため先細り(考えてみれば当たり前ですね)になったため、金利の高い外国債券(モチ、為替リスクがありますが)や海外不動産への大量の投資が必要になってきたのでした。ところが、それまで実績のあった国内企業融資や日本株投資と違ってノウハウのない保険会社は外国の証券会社と提携したり、人材育成のために職員を海外研修や外国の大学院でのMBA取得のために急ぎ送りだしたと言う訳です。こうした動きは経常収支の黒字がGDPの3%を超えた1985年(後で出てくるプラザ合意の年です。GDPの3%を超えてくると成熟した資本主義国、つまり海外に資産を持とうとする「債権大国」になると当時言われていました)以降1990年代の半ばまで続くのですが、僕がロンドンに派遣された1981年と言うのは、そうした動きの端緒の頃であり、入社2年しか経っていない若造を海外研修に送りだすなどというのは、会社始まって以来どころか、恐らく日本の金融界全体でも稀有なことだったようです。因みに、僕は会社のこうした研修(トレーニーと言います)制度の4人目であり、僕の1年前に派遣された先輩は10歳年上、謂わば「10年飛び越えての抜擢」だったのです。会社としては、全く新しい分野での人材育成には出来るだけ若い人材でなければ対応できない・・・との英断だったようです。

 

客観情勢はかなり勇ましいのですが、イヤハヤ本人的にはエラいことです。と言うのも、外国語は大の苦手、予備校での英語の成績はビリから2番目、大学でも第2外国語のドイツ語を落としまくって2年生になって1年生と机を並べて履修し直さなければならないと言う惨状だったのです。多分、記憶力(特に論理的にではない所謂「クソ暗記」)が超苦手、オウム返しのように反応したりするのも苦手種目であって一度自分の中で咀嚼したいタイプ、つまり外国語不適応人間なのですね。因みに、そんな人間がトレーニーを終えてからは国際投資の最前線で長く働き、2000年以降には外資系2社で働くことになろうとは、人生って不思議なものです。また苦手と言えば「数学」も苦手科目であって高校では微分・積分でギブアップ、そんな人間が(詳しくは書き忘れましたが)最初の仕事がスパルタ上司の下で企業の信用力を統計的な手法で定量評価するモデルのメンテナンスを担当したり、高等数学を駆使した金融商品開発(デリバティブ)の開発マネジャーをやったりと言うのですから、本当に人生は不思議、と言うか人生って苦手なことをやらされるような「意地悪」なものなのだと思います。好意的に解釈すれば、「苦手なことをマスターできるよう」神が運命を仕組んでくれる、と言うことなのでしょうか(笑)。

 

さて、また脱線してしまいました。トレーニーに指名されてからのことを書かねばなりませんね。担当していた仕事をさっさとその時の上司に引き継ぎ、神保町にあるイギリス系の英会話学校(それまで自費で通っていたのは「米会話」学校だったので)に通いだしたのでした。このあたりの自分の気持ちについては、もう昔のことだしほとんど記憶がありません。しかし、そもそもそれまで海外へ行ったことなどない若者としては不安一杯の船出だったのでしょう。頑張れ、昔のオレ!

 

2週間程度の日本での語学レッスンを終え、慌しくケンブリッジにある語学学校に入学し、最初に英会話や国際感覚(要するに外人慣れすること)からスタートすることになりました。まずはロンドンのヒースロー空港に到着し、関係者に挨拶です(会社の関係者としては、会社で現在会長を務めるSさんだけが一人、駐在として活動していました。空港に迎えに来てくれたSさんがどれほど頼もしく見えたことか・・・)。

 

当時のイギリスは「鉄の女」と呼ばれたマーガレット・サッチャーが低迷するイギリス経済にオオナタを振るってブヨブヨに肥満した古き大英帝国を締め上げている時期です。今でこそイギリス経済はそれなりに復活して国民は豊かになっていますが、当時はとにかく暗く陰鬱なムードがイギリス全土を覆っていました。肥大した労働組合と対決するサッチャー、地下鉄は旧きヤニと埃にまみれ、ストが頻発、時にはIRA(アイルランド民族主義者の私兵組織)による爆弾テロがロンドン市内で起こるといった物騒な社会情勢でした。スーパーに買い物に行っても品物の種類は少なく、商品のデザインも垢抜けていないバカでかい、使いづらそうなものばかりで、「これが没落する大英帝国と言うものなのか・・・」と妙に合点がいったことを覚えています。そして何より女性のファッションには呆れかえったものです。昔の日本のドテラって皆さん知っていますか?寒いロンドンでの防寒のために綿(当時はダウンなどという便利なものはありません)がドテっと入ったデザイン制ゼロの分厚い半コートです。元々世界的に見れば太って可愛げのないと言われる(僕が勝手に言っているわけではありません)イギリス女性の服装のセンスに無さは驚愕ものでした。折しも在英中に今は亡きダイアナ妃とチャールズ皇太子の婚礼が行われたのですが、あのダイアナ妃と一般のイギリス女性の落差の大きさこそが、今でもダイアナ妃を懐かしむイギリス国民の心情に大きく影響していたのかもしれません。

 

またまた脱線してしまい、ケンブリッジでの生活を入る前に紙幅が尽きてしまったようです。本当は僕の趣味のサッカー(今でも「一応」現役です)、音楽(大学では、ワールドミュージックと並んで当時流行ったパンクロックが好みでした)や海外文学(イギリス人であるアラン・シリトー作品群は大学の頃の愛読書でした)も交えて書こうと思っていたのですが・・・。それは次回のオタノシミ、にしたいと思います。

 

第4回 「ロンドンでの研修」

 

最初に読者の方からの質問へのお答えです。「その会社では今でも研修制度があるのですか?」という質問があったそうですが、一応僕の若手研修が事故もなく、成果があったと評価されたからなのか(?)、そしてその会社の1980年代の海外投資への傾斜に伴って、海外を含めた社外の会社への派遣研修やMBAなどの留学は加速度を付けて拡大していきました。バブル経済の陰での「アナザ・バブル」ですね。80年代後半当時200人位の新入社員の半分程度は、社外研修や留学をさせてもらった、というとんでもない状況でした。しかし、もちろん「バブルの崩壊」と共に、この人材教育でのバブルも崩壊、90年代は急速に萎みました。その会社を離れて15年も経つので、今の会社の状況は詳しくは知りませんが、他の日本企業と同様に、恐らくほんの少しだけある、という90年代の状況は今でもあまり変わっていないと思います。どう考えても「行き過ぎ」は中長期的には必ず是正されるようです。

 

イギリスでの1日目のことは鮮明に覚えています。ヒースロー空港のパスポートコントロールに、狼狽してパスポートを置き忘れ、数分後に思い出して取りに戻ると退席していたイギリス人担当者のデスクの上には僕のパスポートがそのまま・・・・。肝を冷やし、「緊張しているな」と自省したのでした。ホテルはパディントン駅の真ん前にある由緒正しそうなホテルでした。ここで覚えているのは当時のロンドン風「ストリップ」小屋です。過度の緊張感を和らげるために(?)入った(のでしょう・・・そのときの気持ちまでは覚えていません)ホテルの真ん前にあったのです。木造りのボックスみたいなところに入り、お金(少額だったと思います)を穴の中に入れると、窓に嵌った木の板が窓の向こう側にいた上半身下着姿の女性によって上に持ち上げられ、怪しげな音楽がかかり、(イギリス人らしい小太りの)女性が体をくねらせる・・・「こ、これがイギリスの『ストリップ』なのか・・・」と唖然とする中、1分位でその女性が例の木の板を窓の上から「ガツン」と嵌めて、はい、これでお終い・・・。その恐ろしくローテクな、そしてサービス精神の微塵もないショー(と言うのもおこがましい)は、これから経験する、That’s UK! を象徴しているような感じに思えたのです。因みに当時のロンドンには自動ドアも普及しておらず、電車にも券売機はなく全て人力での販売でした(地下鉄の場合は、当時まだ力が強大だった労働組合のこともあったのかもしれません)。研修後にシティから東京に出張に来たイギリスのビジネスパーソンが、日本の地下鉄の券売機を使ったときに「Amazing. That’s Civilization!」と叫んだのを今でも覚えています。

翌日、研修先であるThe Bank of Tokyo International 社(今は「みずほ銀行」になっている東京銀行傘下のイギリス証券会社)に挨拶を行うために「シティ」(サッカーの「マンチェスター・シティ」ではありません。ロンドンの金融街です)へ初めて行って、翌日にはケンブリッジに単身向かいました。NHKのドラマで時々再放送のある「ポワロ警部」や、カズオ・イシグロの「日の名残り」に出てくるような全部木で出来ているような(本体部分はさすがに鉄製などでしょうが)怖ろしく古い電車に揺られて、語学研修を行うケンブリッジに、ようやく到着しました。

ケンブリッジと言っても、僕が1か月英語を勉強したのは本当の「ケンブリッジ大学」(単科大学=カレッジの集合体である大学)ではなく、「ケンブリッジ大学エリアにある」語学学校です。水道工、つまり典型的なブルーカラーの家族の家に下宿することになったのでした。セミ・デタッチハウス(煉瓦造りで、2棟がくっついて建てられている家)、家の前の芝生の狭い庭、あまり上等とは言えないイギリス家庭の食事、異常に強い(笑顔をあまり見た記憶がありません)ホストファミリーの奥さん、休日のサッカー中継が唯一の楽しみであるご主人(休日には、必ず芝刈り《ゴルフではなく、本当の芝刈り》をやらされています・・・要するに日本の家庭以上にイギリスの家庭では夫は小さくなっているのです)・・・というイギリスの生活が「満喫できる環境」の中で1か月を過ごすことが出来ました。

語学学校には、主にヨーロッパ各地から、夏休みを利用して勉強に来た大学生がたくさんおり、クラスでは社会人である僕はどうやら最年長でした。ヨーロッパ以外でも当時羽振りの良かったブルネイの王族だとか、色々な人々が集まっていたことを覚えています。その中で今でも良く覚えている2つのこと、共にディスカッションの場面のことをお話ししましょう。

一つは「ホロコースト」のこと。何かの話の流れで、一人の女の生徒が怒りだしました。どうやらユダヤ人で、ホロコーストに関してクラスメートの男性の発言が許せなかったようです。激しい議論になり、突然その女性が男性を引っぱたきました。日本人からすれば「たかがディスカッション」それも英語の勉強のためのディスカッションなのですから、そこまで激高するのは本当にビックリでした。何人かを巻き込んだ怒鳴り合い・・・長い歴史を背負った民族や宗教の重さ、そんなものを痛感させられるシーンでした。

傍観者だった自分も、歴史の重さを痛感させられた・・・それがもう一つのエピソードです。話は「核兵器」の是非についてのディスカッションでした。話は極めて論理的、即ち核兵器の持つ抑止力を主張するある男子生徒がリードしていました。年長者であり、唯一の被爆国である日本から来た僕としては、広島、長崎で起こったことについてきちんと話すべきだと思いました。しかしながら、聴き取れない英語でのディスカッションの中で、どう喋ったら良いか考えている内に、このテーマでのディスカッションは終わってしまいました。下を向いて自分が恥ずかしかった、そのときの口惜しさを今でも忘れません。そこで議論していたせいぜい10人程度に対する「君たちは核兵器の悲惨さ、不条理について何も知らないんだ」という気づきを与えられなかったといった小さなことではなく、日本人そのものや日本人が受けた経験自体が侮辱された気がしたのでしょう。

その口惜しさが、30年以上経っているのに、(日常英会話の機会もほとんどないのに)今でも僕が毎日30分はポッドキャストで英語のリスニングをやっていることや(自宅から駅までの往復時間の活用ですが)、また帰国後10年間(でしたか)英会話学校に通ったことの理由の一つでもあったわけです。人間一つの記憶で大きな影響を受けるということなんだと思います。

ケンブリッジでは人が羨むような素晴らしい学園都市の雰囲気の中で、楽しい学生生活を行いながら、国際感覚なるものを磨かせてもらったように思います。「お前が一番上手だから今度も試合に出てくれよな」とおだてられて、ヘロヘロになりながら度々出場していたサッカーでの交流なども記憶に残っています。但し、但し、1か月位では英語力(特にヒアリングとスピーキング)はほとんど上達せず、ロンドンでの研修に突入ということになりました(因みに、英会話において、自分として、ある程度喋れるようになったのは、ケンブリッジの時から15年程度経った90年代の半ば、聴けるようになったのは最近、というのが本音です。英会話上達の道は決して楽ではなく、僕の場合は特に荊の道だったように思います)。

 

さてさて、次回はロンドンでの研修から始めますが、実はこのコラムで書きたいことはあんまりありません。何を書くかはこれから考えますが、もしかすると、ロンドン研修よりもずっと面白かったニューヨークでの研修にすっ飛んでしまうかもしれません。

 

若い読者の皆さん、「若い時期の経験は一生もの」と言いますが、僕の口惜しかったディスカッションの話で、そういう実感を感じてもらえたでしょうか?「若い時の苦労は買ってでもしろ」とも言いますが、皆さん、色々行動したり、チャレンジしたりしていますか?恥かいたり、口惜しがったり、泣いたり、怒ったりしていますか?

 

 

第5回 「ロンドンでの研修」(2)

 

さて、1ヶ月のケンブリッジでの語学研修を終えて、いよいよロンドンでの研修が始まりました。前回最後にチラっと書きましたが、研修、即ち仕事の面では皆さんに披露すべき話は実はあまりないのです。秋から冬にかけての陰鬱としたロンドンの気候の下、研修自体の目的・・・ヨーロッパの証券市場の実態を肌で感じ、ナレッジを身につける・・・ということについては、それなりの成果があり所期の目的は達成したと(甘い?)自己評価はしているのですが・・・。それよりも今回は、「趣味」の話をしたいと思っています。

 

「仕事だけの人生なんて味気ない」「仕事以外の時間があるからこそ仕事も充実していける」などと普段からうそぶいているだけに、一応「趣味」と呼べるようなものは、数だけなら「両手の指だけでは数えられないほど」ある・・・と言うことにしています。多くは学生時代に周りにいた面白い友人たちに刺激を受けて興味を惹かれたもの、ということになりますが、趣味の世界も長年追い続け知れば知るほど面白くなり、もっと知りたくなる・・・というように趣味はどんどん深くなり、自分にとって大事なものになっていきます。

 

ロンドン研修との関係では、イギリスで盛んないくつかの趣味について書きたいと思います。

 

まず最初は、何と言っても「サッカー」、イギリス英語では「football」ですね。因みにこの8月の下旬にめでたく「還暦」を迎え、「そろそろ『サッカー現役』の看板も下ろそうかな」と考えている昨今ですが、小学校の高学年で始めて、途中の中断を除いてもサッカー経験は、もう40年以上にはなるでしょう。前回ケンブリッジのところでサッカーの話を少し書きましたが、サッカーの母国イギリスに来た以上、サッカーのことを書かずにはいられません。

半年の研修期間中の宿は、「イギリス文化に馴染んだ方が良いから」ということで、ケンブリッジの時同様、イギリス家庭に下宿する形になりました。手配は全て研修先の秘書室の日本人の女性がやってくれたのですが、その下宿は何と偶然、サッカーの聖地、イングランド・サッカー代表戦が行われる「ウエンブリー・スタジアム」のある、「ウエンブリー・パーク」だったのです。その女性は(当時の日本人なら無理もないのですが)サッカーには全く興味が無く、地下鉄「メトロポリタン・ライン」で「シティ」内の研修先がある「モアゲイト」駅から北に7つ目と至近で、通い易いということが選定理由だったようです。このスタジアムは2007年に建替えられていますので、建替前のスタジアムと言うことになりますね。今の日本人に話すと、きっと「ウエンブリー、それは凄い!」と言うのではないかと思います。しかし、今はどうかわかりませんが、当時は「インド人移民」の街であり、駅の近くには、インド料理屋、つまり日本人の目から見れば「カレー屋」が2軒、ハンバーガー屋(ウインピーだったと思います)が1軒あるだけの、まあ寂れた駅ということになります。

さて、イギリスいや正確に言うとイングランドの当時のサッカーの状況を説明しておかなければなりますまい。ところで皆さん、サッカーだけは、イギリスだけがイングランド、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドの4協会で国際サッカー連盟(FIFA)に加盟していることを変だと思っていませんか?サッカーの母国であるイギリスのサッカー協会(The Football Association 略称FA、1863年創立)は、フランスを中心として1904年に創立されたFIFAに加盟するのを渋り、4協会で参加することを条件にようやくFIFAに加盟したということなのです。

ちょっと横道に逸れましたが・・・当時のイングランドのサッカーは、経済の落込みと同様に、悲惨な状況だったのです。老朽化し、暴徒フーリガンに蹂躙されるスタジアム・・・そして競技成績としても、1974年大会、1978年大会とワールドカップは予選すら通過できず、80年代になって何とか予選は通過出来ていたものの、サッカーの母国の面影は全くなくなってしまったのでした。研修期間中には研修先のサッカーチームでイギリス人に混じって試合に出させてもらったこともありましたが、サッカー好きだとうことが知られ、ウエンブリー・スタジアムで行われたポーランドとのワールドカップ予選に招待してもらったことを覚えています。その試合ではポーランドにいいようにやられてぼろ負け、イギリス独特の諧謔に満ちた落胆の空気がスタジアムを充たしていました。因みに、イギリスがサッカーの母国の面目を回復するのは、サーチャーによる経済改革によってイギリス経済が立ち直った後の1992年の「プレミア・リーグ」の創設を待たなければなりません。現在大学で「スポーツ・マネジメント」も教えていますが、経済や経営のターンアラウンド(再生)といった現在の専門領域に関して、1980年代に「改革前」の状態を見ることが出来たのは、今思えばとても有意義なことだったように思います。

 

僕の趣味について、イギリスと縁のある2つ目は音楽、具体的には「パンクロック」です。今の若い人はJポップばかりで洋楽は聴かないそうなので、パンクなんて言っても何のことだかわからない人が大半かもしれません。そう、皆さん多分プルーハーツの「リンダ、リンダ」位は聴いたことがあるのではないですか?ブルーハーツは、端的に言えば、反体制的な危なっかしさを消し去ったパンクみたいなものですので、演奏のシンプルさ(下手さ+楽器や音の少なさ)、歌詞のストレートさは共通したものがあります。ロンドンパンクでは、セックス・ピストルズ、クラッシュ、ストラングラーズなどが人気のバンドで、大学時代に、その音楽に触れたときには正直「ぶっ飛んだ」覚えがあります。

セックス・ピストルズは”God Save the Queen.”(女王陛下万歳)で”No future for you. No future, No future. No future for me”、”Anarchy in the UK.”で”I am an antichrist.”と叫びました。こうしたムーブメントは、もちろん当時の閉塞感に充ちたロンドンの雰囲気を表わしたものでもありましたが、それだけではありません。ロックの歴史の中では「ルネッサンス」のように隘路に入り込んだ音楽表現を、ロックの精神に引き戻してくれる高揚感を伴ったものだったのではないかと思っています。大学生のときには、自己陶酔的なギターソロが延々と続くハードロックや、商業主義にどっぷり浸かったディスコミュージックのアンチテーゼとして産まれ出たようなパンクの、下手でも自分に正直で魂の籠った潔さに惹かれたのでした。

これは自分の趣味に共通した観点であるような気がします。あってもなくても別に構わない、あるいは楽しければそれでいいじゃん的なエンタメ志向は全くないのですよ。どうせ聴くなら(観るなら、するなら、読むなら・・・)、心を揺すぶられたり、何かを得られる「魂の入ったもの」でないと時間の無駄のような気がするのですね。だからアーティストも真剣勝負で、人生を全てを賭けてくるようなものに惹かれるし、自分としてもそうしたものに触れるときは正座して体験したい(本当は、正座は苦手なのでしませんが、そういう気分で)と考えるわけです。

さて、ロンドンでの体験に話を戻しましょう。ロンドンでの楽しい思い出の一つは、クラッシュのライブです。ピストルズは僕が大学3年生の時に解散してしまっており、当時絶頂期にあったクラッシュのパフォーマンスは人生オールタイムで3本指に入るものでした。パンクバンドの場合、メンバー同士が直ぐに喧嘩するわ、麻薬で捕まるわで、そもそも活動期間は短いので、そういう意味でもクラッシュのこのコンサートに行けてラッキーでした。

3つ目は文学です。大学の時に嵌った作家にイギリス人のアラン・シリトーがいます。東京外語大学のスペイン語科に現役で入っていた(僕は一浪です)高校時代の友人の影響で20世紀最高の作品と言われる中南米のガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んで海外文学の奥深い世界に驚愕したことがきっかかけとなり(だったかは今となっては定かではありませんが)、大学時代に読んだシリトーのピカレスク・ロマン(悪漢小説)であり、ビルドゥングス・ロマン(自己形成小説)でもある「華麗なる門出」に惹きつけられました。シリトー自身労働者階級出身の作家で、労働者階級の哀しみや体制に反逆するような作風で有名なわけですが、この小説の主人公も労働者階級出身の若者が人を騙しながら(と言っても爽やかなやり方です)出世していきながら人間として成長していくというものです。

シリトーの作品は、「長距離ランナーの孤独」や「土曜の夜と日曜の朝」が映画化されたことから有名です。「長距離ランナーの孤独」は、パンを盗んだ主人公が感化院で、長距離走の才能を見込まれて大会に出場、1位でゴールをする直前にゴールの前で立ち止まりゴールを拒否することによって感化院の院長や大人たちの思惑に反抗するというストーリー、「土曜の夜と日曜の朝」は、土曜の夜に酒場で遊びまくる二十歳の旋盤工が、工場の同僚の妻との情事による妊娠と新たな恋人の間で大人の厳しさを身を以って教えられていくといったストーリーです。

僕はこの2作の映画も観ましたが、むしろ「華麗なる門出」そして、やはり労働者階級出身の主人公が外人部隊としてスペインだったかアルジェリアだったか参戦するという3部作がお気に入りでした。

偶然大学の教養課程で英語を教わった先生が、このシリトーの作品もいくつか翻訳しており、そういう意味でもロンドンでの研修というものに人生の縁を感じます。

 

若い皆さんに、敢えて、こうして長々と趣味の話を書いたのには2つの意味があります。一つは、一番好きなスポーツの母国、当時一番好きな音楽ジャンルの一つであるパンク・ロック発祥の国、当時一番好きな作家の一人であったアラン・シリトーの国である英国に引き寄せられた偶然についてです。人生の中で起こることに偶然はなく、全てのことは実は繋がっているというわけです。人はいつでも目先の事象で頭が一杯で気づかないのですが、数歩下がって自分の運命を長期的な時間の流れの中で見つめてみれば、そのことに気がつきます。自分に起こることは全て必然であり、だからこそ、悲観することも楽観し過ぎることも不要なのです。スティーブ・ジョブスの有名なスタンフォード大学でのスピーチ(https://www.youtube.com/watch?v=XQB3H6I8t_4)でも、「点を繋げる」と言う言葉で表現されています。

二つ目は、「趣味」を持つことの意味です。「私は仕事人間で、これといった趣味がありません」と言う人はあんまり信用できません。一つの事だけに集中し過ぎている人間は、そのことから全てを得ようとし、得られなくてフラストレーションを溜めます。自分や、自分の状況を「客観化」できなくなるのですね。結果、思い通りにできなくなり不満の多い人間になってしまいます。心の余裕がないので、他人に対しても寛容になれないのですね。特に山あり谷ありの人生の中での谷の時期、つまり逆境のときこそ、趣味のある人間とない人間で差が出てきてしまうのです。趣味があれば、上手くいかない仕事のことばかり考えずに趣味の世界で一時遊ぶことが出来ます。家族があるのも同じですね。家族があれば、トラブルがあったり、エネルギーを使わなければならない面倒にかかずらわされる・・・しかし、そうしたものがあるからこそ、仕事から一時自由になり、自己を客観化できるのです。

趣味ということでは、同年代のオジサンで、「定年になったら・・・」とか「ヒマになったら・・・」と楽しみは取っておく、みたいなことを言う人が良くいます。でも、そういう人に限って、定年になっても、ヒマになっても、趣味を作り、趣味に遊び、人生を楽しむことが出来ません。趣味だって、仕事や自己啓発と同じで、今やらなければ一生やらないのです。

 

さて、今日書いたロンドンに関係ある3つの趣味についての共通点は、皆鬱屈とした当時のロンドン、イギリスの中から出てきたものであり、ある意味、そのときのイギリスの社会を反映させたものだったとも言えましょう。だから、正直秋から冬の晴れ間のほとんどない季節に生活したロンドンという街は当時あんまり好きにはなれませんでした。老大国の、矛盾に満ちた社会状況・・・そこでの6か月間は、日本以外のことを知る、仕事に関する知識を得る、という意味では非常に意味深かったと思います。しかし、多くの他の日本人同様月並みですが、ロンドンで暮らせば暮らすほど、日本の良さ、日本人の良さを感じられるようになりました。

 

そして、「ようやく日本に帰れる」と思った矢先、「小寺君、次はニューヨークで研修してもらうけどいいね?」という、会社からの打診でした。皮肉や悲観の充満するロンドンを離れ、一時日本に帰国してから、刺激に充ちた最高に楽しいニューヨーク生活が始まるのでした。

 

 

第6回 「ニューヨークでの研修」

 

「青天の霹靂」でもう半年研修期間が延び、それも世界でもう一つの金融都市であるニューヨークで研修をさせてもらったことは、今思えば本当にありがたいことでした。ただ本人はひたすら苦笑い、だって半年ということだったので慣れない異国で、下手な英語を使いながら、歯を食いしばって生きてきたのに、また半年なのか・・・というのですから。

 

余談ですが、そう言えば似たようなことがずっと昔にありました。

中学のとき(サッカー部がなくてハンドボール部の部員だったのですが)学校を代表して中距離1,500メートルの市内中学校対抗陸上競技会(育ったのは吉祥寺のある武蔵野市です)に出ていたのですね。結構速くて、2年の時に3位入賞を果たしました。翌年も代表になり、「2年生の去年3位だったのだから、3年生になった今年は優勝だ」と意気込んだのですが、前年出なかった選手でとてつもなく速い選手がいて、付いて行くのが精いっぱい・・・「こんな苦しいレースがあるのだろうか」と思いながら、渾身の力を振り絞ってラストスパートをかけてゴール・・・「長距離ランナーの孤独」のようにゴール直前で止まることもなくゴールを通過し倒れこもうと思ったのですが・・・何か変なのです。ゴールのテープはないし、僕の後から来る例の凄い選手は、ゴールをしたあともスピードを落とさずレースを続けていたのです。そうです、それはゴールではなかったのでした。ゴールしたと思ったのですが、勘違いで、もう1周走らなければならなかったのです。直ぐに気づいて走り出しましたが、その後の400メートルのきつかったこと。地獄の苦しみだったように記憶しています。何とか走り続け本当にゴールをしました(それでも6位か7位だったと思います)。人間、希望的観測で「これが最後の周だったらいいな」と思うと、いつしか苦しさの中で「そうに違いない」と曲解してしまう弱い者だと言うことなのでしょう。また本人は全力を出し切って倒れこもうとしても、実はまだまだ余力が残っている、ということなのでしょう。当時なぜか生徒会長をやらされていたというように学校の有名人だったはずなので、後々までからかわれた気がします。

冒頭から横道に逸れてしまいましたが、半年の研修期間がさらに半年延びることを告げられたときは、「もっと走らなければならないのか・・・」そんな苦笑い、だったように思います。まあ、自分としては、好奇心満開にして、200%充実したロンドン研修生活だったわけですが、四六時中緊張しっ放しの時間でしたので。

因みに、僕がとにかく1年間それなりの成果で帰ってきたことから、この若手トレーニー制度は会社に定着し(前述のように、今は霧散しているようですが)、1年間という期間は当たり前になりました。後にこの制度で派遣された入社同期が派遣時のことを振返って、「いやー、あの時は楽しかった。毎晩寝床に入る前に、責任もない異国生活のことを思いと、『クックック』と忍び笑いしていた」と言っていたのですが、僕自身は、もちろん楽しかったのは事実ですが、大変だったという意識が強く、「クックック」というような気持ではありませんでした。

 

さてさて、ニューヨークでの生活です。研修先はメリル・リンチ、場所はマンハッタン島の先端の方に位置する「ウォールストリート」でした。後に9.11で破壊されるワールドトレード・センターからも至近距離にある米国最大規模の証券会社ですね(この老舗の証券会社もリーマンショック後はバンク・オブ・アメリカの傘下に入っています。米国金融機関の栄枯盛衰、合併は長い目で見ると本当に凄まじいものがあります)。そこで日本の機関投資家宛の有価証券営業をやっていたTSさんが僕の研修受け入れの方でした。ロンドンでの研修が、7~8人のチームに完全にメンバーとして加えてもらって研修をするという形態だったのに対し、ニューヨークでは営業マンとして会社の中で歩合給によってやや独立的に仕事をしているTSさんにマンツーマンで鍛えてもらう、という形式でした。

住処はタイムズ・スクエアにほど近いマンハッタンのど真ん中の日本料理屋の二階の下宿。タイムズ・スクエアと言えば、怪しげな店や、呼び込みがいるような観光客相手のきらびやかなあたり。日本で言えばサシズメ「歌舞伎町」や「六本木交差点」の直ぐ近に住んでいるようなものです。お金を出せば何でも手に入る「欲望満開都市」のど真ん中で、毎日暮らすようなものでした。当時若くて元気一杯だった自分としては、それまでの鬱屈するような暗いロンドン・シティーを離れ、急に欲望満開都市に来てしまったのですから、毎日エキサイティングと言うか、「ハレとケ」のハレの状態で、アドレナリン出っ放しのニューヨーク生活だったように思います。

 

TSさんは朝から晩まで、スクリーンに映し出されるマーケット(債券、株、為替、デリバティブ)の動きをじっとモニターしながら、顧客に情報を提供し、入ってくる注文を淡々とこなしていきます。ただ注文と言うのは、せいぜい一日数件といった感じなので(1件1件は、金融機関からの注文なので、額はそれなりに大きく、手数料も結構な金額)、大概の時間はマーケットの動きについて、仕事というものについて、など氏から色々教えてもらうという日々が続きました。このTSさんという人は、それまで会った「大人」の中では傑出した凄まじい過去と潔さを持った人物であり、TSさんの元で過ごした半年は自分の仕事観や人生観に大きな影響を与えました。「薫陶を得る」という言葉が正に当てはまり、TSさんは紛れもなく僕の人生の師の一人となりました(尊敬する人は何人もいますが、他にあんまり師と呼べる人はいません)。「正しいことは正しい、間違ったことは間違っている」と体制に逆らっても言う反骨精神、「負けるものか」という負けん気など、自分との共通点が多かったのですが、20歳ほど歳の離れたTSさんは、それまでの人生でそうした潔さをずっと貫いてきていたのです。それからの僕の人生、TSさんは時々心が折れそうになったときに自分を支えてくれるロールモデルとなりました。

フランス文学者であり、数々のベストセラーを世に送り出してきた内田樹氏は、「人生で大事なこと、それはとにかく『師』を持つことだ」と言っています。「師」の人格や見識などはどうでもいい、とにかく師を持つことだと言うのです。つまりこういうことなのでしょう。人間生きていく中で、時には自らの成長を実感したり、成功したり、ということもあり、その度に少し横暴になってみたり、それまでの成長を止めてしまったりすることがあるわけです。師があり、常に師を敬って少しでも師に近づきたいという気持ちを持っていれば、多分そういう怠慢や横暴からは逃れられるのでしょう。「自分もまだまだだ、努力しよう」と自分を空の上からの師の視点で客観的に検証すること・・・それがつまり内田樹の言う、「師をもて」の真意ではないか、と思うのです。

 

TSさんは、名古屋で手広く事業を営むSコンツェルンの長男として生まれ、地元の名門進学校である東海高校を卒業後、1955年に(僕が生まれた年です)ニューヨーク大学の数学科に留学します。我の強い跡取り息子、そして日本人が海外留学するのは稀だった時代に名門ニューヨーク大学に留学してしまうのですから、相当に頭脳も明晰だったのでしょう。ところがニューヨーク大学卒業後の大学院在籍中に突然日本から一通の電報が到着、電報は、「事業に失敗しコンツェルンは崩壊、そしてTSさんの父親は責任を感じて自死を選んだ。至急帰国せよ」とのことだったそうです。

TSさん、つき合っていた同級生のドイツ人でかつてナチスドイツの迫害から逃れるために東ドイツから移民してきたGさんを籍に入れ、急ぎ帰国します。帰国後は、債権者に何年も苛められながらも父親の会社を守り抜き、その後列島改造で急騰した会社の不動産資産の売却益で借金を返済し、大手総合商社伊藤忠で働くことになります。かつて帝国陸軍で、大本営作戦参謀で後に会長になる瀬島隆三などの元で得意の英語を駆使して米国の某自動車メーカーと日本の自動車メーカーの提携を担当したりしたそうです(そのディールは僕も知っていた有名なディールでした)。しかし会社と意見が合わなくなって退職(女性の雇用や処遇の問題だったと仰っていた記憶があります)、その後メリル・リンチの営業職に就き、日本の機関投資家との取引で巨額の歩合給を手にしてニューヨークの日本人の間では著名な成功者となりました。

 

こう書くと、凄い人生を歩き、ウォールストリートで成功した怖ろしい人物・・・という感じがするでしょうが、大変気さくなジェントルマンでした。服装もおしゃれ、そして常に自分の考えで、リスクを取って行動していました。優しい眼をして、毎日ドリップでコーヒーを入れてくれましたが、さすが眼光は鋭く、マーケットを見る洞察力のするどさ、一匹狼のような孤独な影は人々を魅了しました。6か月本当に身近に置いてもらい、反骨精神と言った点で共通点があることもTSさんにとっては微笑ましたっかのでしょうか、可愛がっていただきました。

因みにTSさんの長女はミュージカル俳優の道に進み、「キャッツ」(劇団四季のものではなくブロードウエーの本物の方のです!)のオリジナルメンバーの一人です。また、僕の帰国後もTSさんとは仕事の面でも繋がりがありました。当時ジャパン・マネーを獲得しようと進出してきた外資系証券会社の一つであるE社の幹部に転身され日本法人の立ち上げに尽力されました。その日本法人のメンバーの何人かともその後懇意にしてもらい、色々な場面で助けてもらったこともありました。人生わからないものです。ある人とのつき合いがまた他の人とのつき合いに繋がり、色々と影響し合うものなのです。

 

さて、TSさんのことを書いていたら予定の紙幅を超過してしまいました。その他のニューヨークでの出来事は次回に譲ることにします。

 

第7回「ニューヨークでの研修」執筆中の一休み?

 

読者から、為替や株や債券などのトレーダーだったということについて、「一生の仕事とするのはどうか?」とか「トレーダーとして成功するにはどうすれば良いのか?」という質問が、高学歴の学生から来ているそうです。80年代、90年代の凄まじくマーケットが変動した時代にそうしたことをやっていた人間としての答えは極めてシンプル、「トレーダーを一生の仕事にするなど絶対にダメ、トレーダーとして成功するなどほとんどの人には不可能」と言うものです。資産運用の世界で成功するには「才能」が要ります。その才能は、多分100万人に一人といった確率でしか発現しない確率です。数年やって上手く行ったという人は沢山いるでしょう、ビギナーズラックで買った株で偶々儲かり(相場は上がるか下がるかしかありません。個別の売買で儲ける確率は、何も知識がなく、何も考えなくても50%なのです)、「イヤー、株って面白い。お金を稼ぐのがこんなに簡単なことって初めて知った」などと言う御仁をよく見かけます。しかし、そういう人、半年ぐらいは「また儲かった・・・」などと聞きたくもない成功譚を聞かせてくれるのですが、ある日を境にして株のことを(為替でも同じです)一切話題にしないようになります。

彼に何が起こったのでしょうか。そう、「大損した」のです。多分最初の内の儲けをはるかに上回る金額の損をして、「もう金輪際株(為替も同じ)には手を出さない。やっぱり地道に働くのがいいんだ」と思っているのです。つまり資産運用に「必ず儲かる王道はなく」、大負けするまで人間はこの行為を続け、そして大負けしてようやく止めるのです。

なぜこういうことになるのか?資産運用の世界では、勉強とか、普通の仕事とかのようにやればやるだけ、苦労をすれば苦労をするだけ、その世界に習熟し上手くなるということがないのです。もちろん、その道のプロは知識を貪欲に吸収し、常に自分のナレッジを鍛えようとしています。無知は長期的には必ず失敗に繋がるからです。しかしながらその逆は成立しない。知っているから必ず勝てるということがないのです。何千万、何億という人たち、それぞれの思惑で様々な投資行動を採る市場参加者の中で的確に先を予想し、行動を起こすのは不可能なのです。

読者の方は、「でも最初に『才能があれば勝てる』と言ったじゃん」と言う人もいるでしょう。そうです。ある特異な才能です。

良く資産運用の世界で最もふさわしいタイプの人は誰か?という質問に対しては、「落語に出てくる長屋の大家みたいな人」と教わりました。まず、そこそこのお金があってお金を失うことの恐怖に絡めとられない状況であること、そして、こちらの方がもっと大事なのですが、何が起こっても極めて客観的に物事を見つめられること、が重要です。自分のポジション(株を持っているとか、空売りしているとか、あるいはドルを買っているとか、売っているとか)とは「100%」関係なく現実を見つめられる能力、つまり相場が上がれば「ああ、下がりましたねぇ」と淡々と呟き、相場が上がれば「ああ、上がりましたねぇ」と淡々と呟ける人です。

相場をやったことのある人は分かると思うのですが、自分のポジションにフェイバーな動きになったとき、例えば自分が買った株が上がりだしたときは、「もっと上がるのではないか」と希望的に感じ、下がりだして自分が買った値段よりも大きく下がってしまったときには、「ヤバい、もっと下がったらどうしよう。大きく損をこいてしまう。上がってくれないかな」と思い、損切りが出来ないわけです。下がったポイントで冷徹に、過去のこと(いくらで買ったとかそういうこと)を一切判断に混入させず、「これから上がるのか、それとも下がるのか、それはどれ位か」を淡々と考えられる性格・・・それこそが重要なのです。

でも、これってはっきり言って「人間の生理」に反する「強さ」を要求されるものなので、そういう判断をしょっちゅうやっている人は通常体のどこかが変調をきたします。かく言う僕自身も性格的には突出して「クール」であると自他ともに認める性格ですが(賢いという意味のクールではなく、物事万事に淡々として客観的であること)、シビアな資産運用の最前線に身を置いて何年かして、体中がボロボロになりました。特に、儲かっているときはまだいいのですが、損が嵩んでくるような状況では体はキツいです。

僕の場合は、ドルが半値になってしまうような強烈なドル安・円高が起こった1985年の「プラザ合意」のときに、外貨為替をポジションをテイクケアするチーフトレーダーであったり、バブルが崩壊した1990年にある巨大ファンドの日本株を始めとする運用責任者であったり。というトンデモナイ「運の悪さ」で(当時働いていた機関投資家の)何兆円もの損失を体で受け止めなくてはいけなかったのですから、資産運用など「もうコリゴリ」という人の何億倍も強いのかもしれません。

さて、ここまで書いても読者の中には、「でも、才能にある人はいるんでしょう?」と執拗に聞いてくる人がいるかもしれません。20年以上の期間、こうした仕事に関連し、業界のことは裏から表まで知り尽くしている人間として、恐らくこの20年間で見知った人の中で(評判などでの判断も含め)「才能のある人」は恐らく片手以内しかいない、というのが実感です。特に、新聞等で「訳知り顔」で相場を語る金融機関の人で、そうした才能を持っている人はいるはずが論理的にもいるはずがありません。だって、才能があるなら人に知らせることもなくそっと大儲けして人に知らせるはずもありませんし、どっかの金融機関で働くこともありません。相場の世界は、多数派は儲からないことになっているので、プロの世界では、多数派、特にセミプロの判断の逆を行く方が儲かるというのが経験則になっています。例えば、ウォールストリートに、「プロフェッショナル・ショートレシオ」という指標があり、その株をショート(下がると考え空売りする)しているプロの割合を相場判断に活用しているのですが、驚くなかれ、この割合が高い(つまりプロが悲観的に見ている)株は上がる見込みがあると、プロ自身が考える材料の一つにしている、のです。まあ、こんな話をすると、「面白い!」と思う若者もいるかもしれませんが、還暦のオジサンとしては、こんなことで面白がっているんじゃなくて、もっと地道な仕事で努力し、大きな成功を得て欲しいと思うのです。金融的な言い方をすると、資産運用の仕事は努力が成果に結びつかない、つまり努力をいうものに対する「コスパ」が極めて悪い仕事なのです。ゆめゆめ間違ってこの世界に迷い込むことのないよう、有為な若者に警鐘を鳴らしたく、本当は「ニューヨークでの研修(2)」を書くはずだった今回、余計なことを書き連ねてしまいました。

 

僕自身、ビジネスライフの後半生は資産運用の世界からは決別し、経営、もっと具体的には経営改革・事業再生の方にシフトし、今はそうした経験を糧に大学で教鞭を執っているのです。

 

第8回「ニューヨークでの研修」(続)

 

前回、寄り道をして相場の話をしてから1ヶ月以上経ってしまいました。基本的に月に1回は原稿を・・・と思っているのですが、家庭の事情などで中々時間が取れず、継続して読んでいただいている方(何人いるか知りませんが)を待たせてしまいました。

 

今回はニューヨークの研修の第2回目となります。前々回にTSさんとの思い出、研修のことを書きました。今回は「若気の至り」の回です。

 

ニューヨーク(以下、親愛の情を込めてNYと記述します)では、マンハッタンのど真ん中に住むことになりました。NYという街は良く知られているように、南北については、北にあってセントラル・パークなどがあるアップタウン、南にあって「ウォール街」などがあるダウンタウン、そしてその中間にあるミッドタウンに分かれます。僕が「最初に」(カッコがつくのが今回のミソです)住んだのはミッドタウンでした。

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モンドリアンの「ブロードウエイ・ブギウギ」という抽象画に描かれているように、ミッドタウンは碁盤の目のように整然と道が東西南北に走っており、南北に走る道路がアベニュー、東西に走る道路はストリート、というわけで、極めて分かりやすい構造になっています。僕が住んでいたところの正確な番地は、もう30年以上も昔のことなのでウロ覚えなのですが、ウエストの46丁目(ストリート)のアメリカ街(アベニュー)と五番街(アベニュー)の間あたり・・・会社の駐在事務所のあったロックフェラー・センター、観光客の集まるタイムズ・スクエア、ミュージカルをやっているブロードウエイの劇場、レディオ・シティから歩いて10分以内、確かユダヤ人がダイヤモンドの店を出しているダイヤモンド街の一本南という、東京で言えば歌舞伎町か、青山か、といった場所にある日本料理屋の二階の下宿でありました。

それまで住んでいたロンドンの、天気が悪く鬱屈した雰囲気から、一気にハレの場所、毎日お祭り騒ぎをやっているような特別な場所に住むことになったのですから、24時間アドレナリンが出っ放しという感じです。吉祥寺の田舎育ちとは言え(僕が育った頃の吉祥寺は、井之頭通りでさえ舗装もなくて車が通れず、犬のウンチが転がっているような田舎だったのです)、一応東京育ちの自分としては、若かったし、やはりNYの「何でもあり、住人全員覚醒状態」という感じが性に合ったようです(今はきっとヨーロッパの文化や歴史に彩られた街の方を好むのでしょうが)。夜になれば、ちょっと外に出て、煌々と輝くネオンの元、観光客や地元の人たちが繰り広げる喧噪に身を任せ、朝は朝で、ベーコンエッグとコーヒーで徐々に活気づく世界一の都市の空気を体に吸い込む・・・という本当に夢のようなシティライフを送ることが出来ました。「お金を出せばNYでは何でもできる」という雰囲気の中、「NYでは人々が日々必死に夢を追い求め、そして叶えられないまま消耗して歳を取っていく」という素晴らしく、恐ろしい街で半年暮らしたのでした。

ただ、この日本料理屋がやっている下宿屋の店主というのが曲者でした。昔(戦後直後だと思います)、フルブライト留学生の前のガリオア奨学金というものでアメリカ留学をし、当時まだ少なかった日本料理屋というものに目を付け、自ら板前として店を立ち上げたのでした。料理の腕は素人の粋を出ておらず、ただ寿司とか天ぷらだとか居酒屋の定番メニューを出す廉価の日本料理店で、企業からの数か月といった、ホテル住まいには長すぎ、逆に部屋や家を借りるには短すぎるといった派遣員を二階に泊め、日本料理は何でもタダ(つまり宿泊フィーに含まれるので定額)ということと、立地の良さでまあ下宿屋はそれなりに繁盛(僕の他にも日本開発銀行《今の政策投資銀行》や安田火災《今の損保ジャパン》の人も同宿でした)していたようです。

会社のNY駐在事務所の人にしてみれば、派遣されてくる何をしでかすかわからない血の気の多い若者が何か問題を起こした場合は自分たちの管理責任を問われる・・・という意識も働いたのか、自分たちのオフィースに近くて管理がしやすく、日本食が食えるので文句も出ないだろう・・・という考えで、ここを宿に決めてしまったわけです。確かに「大人」のビジネスマンのリスク管理感覚では、当時最高に荒んでいたNYに現れた20代前半の研修員などは「招かれざる客」であったのも事実でしょう。もちろんNYの駐在事務所所長も僕を徹底的に管理しようとしたわけではなく、単に他の「NYも治安の悪さを怖がり、日本食を食わせておけば満足な日本人ビジネスマン」と同じように僕を扱っただけだったというのが真相だったと思われます。ただ、僕にしてみれば、いつも雅楽の演奏のような「サクラ、サクラ、弥生の空は・・・」という旧い日本の残滓のようなメロディーが聞こえる暗い店内や、ロサンゼルスに別居中の女房を置いてNYで愛人と一緒に店をやり、身体の痛み(ガンだったかもしれません)が原因なのか、さしてミスをしたわけでもない従業員を一々罵倒しながら仕事をする店主のことが大嫌いだったのです。こんなの「NYじゃないやい!」という訳ですね。

 

ロンドンの半年で既に海外暮らしには慣れていて、脳にはもう完全にアドレナリが満ち溢れ、新しい文化や食事にチャレンジしたくてウズウズしていた自分はここで終に行動に出ます。ヴィレッジ・ボイスというタウン誌にあったサブリース物件に勝手に引越をしてしまったのです。サブリースというのは、借家住まいの人間が行う又貸しのことを言います。ニューヨークや家賃が当時でも高かったのですが、既に住んでいる人の家賃水準というのは低く抑えられていたので、借家人は適宜又貸しをすることによって差額分を稼ぐことが出来ました。僕の場合は、映画関係の仕事をしているユダヤ人の女性が、夏の間だけボーイフレンドと同居するので、その間だけ・・・と言う条件で貸してくれることになったのでした。日本人は部屋を綺麗に使うということを彼女は知っていたので、軽い面談だけでOKを出してくれました。

 

場所は、何と、全世界の若者のあこがれる「グリニッジ・ヴィレッジ」の一番の目抜き通りであるブレーカー・ストリートから一本入っただけの建物の二階。一階にはイタリア料理店が入っていて、窓を開ければニンニクの香しき匂いがしました。

ここで過ごした一か月間は、それこそ至福の期間でした。ミッドタウンの喧噪にも飽き飽きしていた身には、文化の香りのするヴィレッジは本当に素晴らしく、歩いて直ぐ行けるヴィレッジ・バンガード、ラッシュ・ライフ、ブルーノートなどのジャズライブで毎晩繰り広げられる生演奏にエネルギーをもらい、国際都市のダイナミズムに身を任せて、日々最高の生活を送ることが出来ました。

 

ところが・・・そうです、良識のある方なら、僕のこの行動は、いくら何でも暴挙としか言いようがないですよね。駐在事務所に事後報告で行ったときに、こっぴどく叱られ、東京本社からの国際電話でも注意を受けました。そりゃ、そうですね。いくら元気一杯、行動力・・・と言っても、現地で後見してくれている事務所の人に事前に相談して了解を取り付けることが必要ですよね。

結局、サブリース契約は破棄、その後始末について駐在事務所からは、「大変だろうけど、自分が蒔いた種だから自分で収束するように」と言われました。直ぐに貸主に了解を取り付け、ヴィレッジ・ボイスに広告を出し、契約書も自分で作って、又貸しの又貸しをあっと言う間に済ませてしまいました。

東京本社からの上司の課長からは、「『あんな所に住んでいたのでは国際感覚を磨くという研修の一つの目的を果たせない』といった考えを押し通そうとするのは違和感があるなぁ」と言われ、「お前、駐在事務所とは冷却期間を置いた方が良いから、海外出張にでも行ってこい。南米なんかめったに行く機会がないんだからいいんじゃないか」と国際電話で言われました。この上司、後に常務まで上り詰めた豪快で尊敬できる上司で、帰国後も引き続き上司だったのですが、この規格外の太っ腹上司のお蔭でブラジル、アルゼンチンなどに行くことが出来、週末にはサンパウロ駐在の方の厚意で、あのイグアスの滝観光まで出来てしまいました。後から考えると怪我の功名みたいなものですね。

 

ただ、僕としては、このオバカ行為と、そのあとの叱責については、多分生まれて初めての「挫折感」を味わう重たいものだったのです。それまでの27年間位の人生で、自分自身の失策によってこっぴどく人から怒られたことは恐らく初めてでありました。それまでの人生、それほど大きな失策はしてこなかったということもあるでしょうが、きっと周りの人はこの自分本位で、自分の理屈だけで行動してきた若者に対して面白がっていたのか本当に寛大だったということでしょう。そうしたことを異国の地で考え、それまでの27年を反省したのです。駐在事務所の方々には心から詫びを入れました。南米出張時も、自分の立ち居振る舞いを反省しながら過ごしました。帰米してからも自分の内面と対話を続けました。ある時には、「とんでもないことをしでかした」と結構考え過ぎて辛くなり、「人はこんな時にきっと死にたくなるんだな」とそれまでの人生では考えないようなことまで頭をよぎったのです、数秒間ですが。

 

帰米後は、ミッドタウンの国連本部ビル近くのパークアベニューにあるステューディオ(長期滞在型ホテル)を自分で見つけて住むことになりました。

 

こうして半年に及ぶNY生活は終わりを告げます。何でも自分で動かなければ始まらない、という完全アウエーでの力強さと、周りの人たちへの感謝について少しだけ考えられるようになった若者は帰国の途へ就きます。NYでチョンボをした自分ですが、南米出張時の現地エグゼクティブ達への対応の良さに感心して東京本社にお手紙まで書いてくれたサンパウロ駐在の優しさや、帰国直前に書きあげた研修レポートの出来の良さを絶賛して国際電話までくれた直属の係長(この人も後に常務にまで上りつめました)のお蔭や何やかやで、左遷させられることもなく、予定通り東京本社の国際投資部門に発令されました。

 

帰国の前日、深夜の真っ暗なヴィレッジを散策しながら、「ここで物陰から暴徒が現れたら、自分の命はお終いだな。人間の命なんて、そんなものかもしれないな」と死のことが身近に感じられたのを覚えています。

 

帰国当日は、「キャッツ」初演の日でした。父を突然亡くした過去を持つTSさんの娘さんの演技を見られないことは一つの心残りでした。

 

この時はまだ、帰国時におこる、人生を揺るがすような大きなことが僕を待ち受けていることを知りませんでした。今から33年前の9月下旬のことです。<記:2015年12月25日>

 

追記:上記を書きなぐった後は家族で年に何回かの贅沢、レストランでクリスマスディナーでした。行きつけのフランス料理屋で、ソムリエからワインの当たり年だった1982年の赤を薦められました。高かったけど、33年前という偶然に、注文することにしました。その赤ワインは、熟成が進んで、一点の雑味のないスッキリした味がしました。

 

 

第9回 「帰国、そして超多忙な日々」

 

LDN、NYと1年に渡る海外研修生活は終わりました。LDNの時はヨーロッパ視察旅行(ドイツ、フランス、ベルギー、スペイン)、NYでは冷却期間としての南米出張(ブラジル、アルゼンチン)までさせてもらったのですから、今から思えば本当に贅沢かつ恵まれた研修だったと言えます。その会社の現会長であり、当時のLDN駐在事務所長のSさんは、「小寺君、会社に凄いコストをかけさせたこと、全然心配することなんかないよ。会社ってものは必ず元を取るから・・・」と言われたのですが、その時は実感としてその言葉の意味が分かりませんでした。しかし、さすがバブル後の低迷した会社を見事に立ち直らせて上場まで達成したSさんの言うことは全く間違ってはいませんでした。帰国後の僕を待っていたのは、「超」に「超」が重ねてつくような多忙の日々でした。

 

1982年の秋から、バブルの崩壊する2000年までの20代後半から30代の半ばにかけての8年弱の期間は正に怒涛、そして同時に自分自身と言う面では混沌の海に突き落とされるような大変な時代だったのです。

 

仕事の内容は、国際投資に関する「すべて」のことでした。国際投資とは、即ち保険会社であるその会社が毎年集めてくる保険料(毎年数兆円ありました)を、それまでの資産運用の大宗を占めていた企業融資の需要(ニーズ)が無くなった日本国内ではなく、海外の債券(外貨建ての「外債」)や外国株で資産運用することです。その年間数兆円といった巨額の増加資金のかなりの部分を外債などで運用することになったのです。投資対象の質を確保しながら量をはくことは困難を極めました。外債や為替の発注業務(投資に相応しい銘柄を探し出していくつかの証券会社と交渉し、出来るだけ安く買う)、事務業務(日々の伝票、帳簿作業、資金の手当て)、管理・決算業務、そして市場や相場の分析・フォロー、それに関連してコンタクトしてくる証券会社や銀行との対応・情報収集、運用に関する新商品の開発・・・・こうした業務を課長、係長と共に僕を含めた5人程度の平社員でこなしていくのです。入社4年目の若手ではありましたが仕事の内容は係長、いや課長のレベルを要求されました。

他の金融機関から顧問で入ってきた方から、僕らの仕事の状況について、「あなたたちの仕事は普通の会社なら100人ぐらいでやる仕事の量ですよ」と言われたことを覚えています。確かに、年々担当人員は増えていき僕がその仕事を離れる頃には100人程度にはなっていたように思います。

 

この頃の忙しさを表わすエピソードを紹介しましょう。かなり壮絶です。

 

・朝仕事を始めるときに、今日行わなければならない仕事を列挙し、それぞれの時間の

デッドラインを明確にしながら優先順位、仕事のクオリティレベルを瞬時にメモする・・・今なら「タイムマネジメント」と言いますね。皆こういうことはやっているのでしょうけど、当時の優先順位はとんでもない基準でした。つまり忙しすぎるので社内や社外から「・・・までにお願いします」と言う通りには絶対に出来ないことが分かっている。従って、「それをやらないと翌日の資金が手当てできなくなる」「社外的に手続きが絶対に間に合わなくなる」とかいう切迫したデッドラインの、それもギリギリのデッドラインで仕上げる・・・・従って、通常設定されている(多少余裕を見たデッドラインは全て無視、どんなに怒られようと、お金のやり取り(決済、受け渡しなどと言いました))が最優先、管理業務、事務業務など後回しでもOKなものについては(必ず)後回しにする、タイミングが全てに優先されます。常に朝令暮改、市場の変化に合わせて上記の優先順位をフレキシブルに変更しながら、5分刻み位の時間管理で毎日の仕事を行っていました

・ランチが時間通り取れないことなど日常茶飯事、夜も遅くまで帰れません。夜電車に乗る頃には全身から魂が抜けるような疲労を感じました。あるとき親戚の人が夜の電車で僕を見つけたのですが、あまりに疲れて生気の欠けた顔を見て、声をかけることも出来なかったと後で言われました(それでも、なにくそ!と帰りの電車では経済雑誌を読んでいましたし、まだ若かったのか翌朝になると疲れは吹っ飛んでいたのです)。

・あまりの激務で、伝票や帳簿をつける(当時はコンピューターは未発達です)女性が

時々仕事中倒れるようなことがありました。目が一時的に見えにくくなったと言うようなこともありました(今なら「ブラック企業」として社会問題化しそうですね!)。

・溢れ出る資金を狙って、世界中から証券会社や金融機関の人たちがコンタクトしてきました。その対応だけでも大変だったのですが、上司たちはランチ、ディナーの接待が毎日のように入り、真面目に食事をするとフォアグラ状態になるという有様でした(僕はそういうことが嫌いだったのですが、時には仕方なく有名フランス料理屋でのフルコース、そのあとは銀座のクラブへ・・・ということもありましたが、そういうことを楽しむにはまだまだ若すぎ、楽しめませんでしたね)。

・ある時期は、3つの仕事の兼務になり、ファンドマネジャーとしての席、事務管理の席、他の部署での席という3つの席をもらって、それぞれの仕事をしなければならない羽目に陥ったこともあります。

・新商品への投資では、1件数十億円といった取引を直ぐに実行しなければならない場合もあり、英文の契約書を弁護士に見せる余裕もなく、決して薄くはない内容の契約書のチェックを自分一人、30分でやって、相手と交渉して至急文言を訂正させるようなことも何度かありました(件数やっていれば、一見難しい仕事も習熟していくものです)。

とにかく嵐の中にいるような忙しい状況でした。時々刻々動く相場を理解し、運用に関する相場観を修正していかなければならない・・・という仕事については、世界中から情報が届き、解釈し、実際に運用する、とてもエキサイティングな仕事でしたが、相場観と言うのは前に書いたことがあるように、そうそう当たらないもの、相場の動きに翻弄されながら時間はあっという間に過ぎて行ったのでした。

 

第10回 「嵐を呼ぶ男」

 

前回書いたように海外研修からの帰国後は多忙を極めました。帰国した1982年から、1980年代後半のバブルの生成、そして1990年のバブルの崩壊・・・この時期は僕にとって、会社の最前線の切込み隊長のような立場で、研修で蓄えた知識や貯め込んだエネルギーを大放出しながら孤軍奮闘した時期、そして大きな責任を背負いながら苦しみもがいた時期でありました。1980年代半ばには、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と世界一の経済大国のように称賛され、1990年のバブルの崩壊以降はジェットコースターの頂点から猛スピードで奈落の底に真っ逆さまに墜落するのですから、その中で奮闘した人間は皆血みどろにならざるを得ません。為替、株式、金利すべての金融商品が後にも先にもないほどの大きな変動をしたこの時期は、自分のビジネスキャリアにとって、そして人生にとって混迷の中での「模索」の始まりの時期だったように思います。

 

今回タイトルは「嵐を呼ぶ男」という勇ましいものです。と言うのも、僕のビジネスライフを振り返ってみれば、「大波小波」と言えなくもないようです。そして、この30年以上の年月の中で、金融市場におけるネガティブな意味での大事件、つまり「○○危機」とか言われるときには必ずと言ってよいほど、僕自身その災禍が直接及ぶシビアなところにいた、ということなのです。以下箇条書きにすると・・・

 

・1982年のメキシコ危機(米国に端を発する金利の急上昇のためにメキシコの対外債務利払いが増大し財政が破綻、利払いの一時停止≪モラトリアム)を宣言。米国中央銀行はインフレ退治のために引締めていた金融を緩和し、これが高金利の終焉の端緒となった)では、NYで研修中、南米を旅行中(※本エッセイで前記)。

・1985年のプラザ合意(米ドル高による米国の貿易赤字の急増が世界経済に大きなマイナスであるとの認識によって世界中の中央銀行が秘密裏に合意し為替市場に介入、米ドルを人為的に引き下げた。日本市場が祝日≪勤労感謝の日)であったこともあり1日で20円以上の円高に振れ、その後の2年半で237年から123円への大幅な円高の端緒となった)時には為替のチーフディーラー(実際は、為替ポジション≪当時約3千億円)のリスク管理責任者)。

・1990年のバブルの崩壊時(日本株は日経平均で4万円弱から半値以下に下落)には、ファンドマネジャーとして日本最大の公的年金ファンド(もちろん日本株も相当量保有)の運用担当者として手ひどい市場の洗礼を受ける。

・※1990年代は直接金融市場に対峙する仕事ではなかった~この時期は日本の金融市場に影響を与えた危機はなし。

・2001年の米国ITバブルの崩壊(実態以上に高くなりすぎた世界のIT企業の株が、ITを使った電力サービス会社であるエンロン社の不正発覚をきっかけとして急落、エンロン社他新興IT企業多数が破綻)時には、最初の転職(2000年)によって外資系投資顧問会社のアカウントマネジャー(顧客対応担当)に就任しており、担当ファンド(もちろん海外IT企業株もかなり組込まれていた)のパフォーマンス悪化に関する顧客への説明責任で苦慮。勤めていた会社はその影響もあって人員削減を実施。

・※2002年から2007年は、金融市場は基本的に安定的だったが、この時期僕は金融市場とは無縁の企業で勤務(但し2007年にはリーマンショックの先駆けであったサブプライム問題が発生)

・2008年のリーマンショック(米国住宅市場におけるバブルの崩壊によって老舗の投資銀行であるリーマン・ブラザースが破綻、世界金融危機発生懸念の中で世界中の中央銀行が信用不安払拭のためにマネーの供給、各国の財政赤字の急激な悪化を招いた)時には、金融業界に復帰しており、急落したヘッジファンドを販売していた外資系金融機関は大リストラを敢行する羽目に陥る。

・※その直後に外資系金融機関を退社後現在までは金融市場に直接関る仕事には就いていないが、この時期も大きな金融市場における危機は発生していない。

 

と言うわけです。

 

要するに、僕の場合、これまでの30年以上のビジネキャリアにおいては、結果的に金融機関と非金融機関とを行ったり来たりしてきたわけですが、傾向として大きな金融危機は、必ずと言っていいほど僕が金融機関にいる間に起こっている、それもその負の影響(=嵐)を受ける矢面に立っているときに起きている、逆から言えば、僕が金融機関にいる間には大きな危機が起こったことが多く、いない間には起こっていない、ということなのです。今は大学で奉職しているので金融危機は起こりにくい???ということなのかもしれません(笑)。

 

金融市場の変動あるいは社会変動に翻弄されてきたビジネスライフ、と総括してきたわけですが、自分自身としてはアンラッキーだとは全く思っていません。いやむしろ、そうした激しい経験があったからこそ、自分は鍛えられ、今の自分があった、つまり自分はラッキーだったとさえ思えるのです。

 

考えてみれば、前に少し書きましたが、僕が生まれた1955年と言うのは、「戦後が終わり高度成長が始まった」象徴的な年であり、また就職した1979年と言うのは、イギリスで、新自由主義を始めたとも言えるマーガレット・サッチャーが首相になった年、インフレからデフレへの道筋を付けたアメリカのポール・ボルカーが連銀議長に就任した年、イランでイラン革命が起こりイスラム教がペルシャ・中東地域での大きなパワーを持ち出した年、と言うようにその後の世界の政治・経済における一つのエポックメイキングとなった年なのです。

 

会ったことのある人は良く分かると思うのですが、僕自身は傍目には極めてモデレートで淡々とした風情の人間であるようなのです(自分のことは良く分かりません)が、社会や経済の大変動に翻弄されて、何度も奈落の底に突き落とされては立ち上がってきた気がします。NHKの朝ドラ「あさが来た」の白岡あさの九転十起ほどではありませんし、あんなに華々しい大成功を収めた人とは月とスッポンのあくまでも市井の一庶民ではりますが、今後どんな危機に遭遇しても、「矢でも鉄砲でも持って来い」いやそんなに勇ましくなくても、「どんなときも、何とかなるだろう」と言う彼女と同じような心持を今は持つことが出来ています。色々経験した還暦の「年の功」かのしれませんね。

 

あー、と。1982年の帰国後の苦闘について書くはずが、横道に逸れている内に紙幅が尽きてしまいました。それについては次回ということで。

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第11回 「世界の金利」(横道に逸れて)

 

前回、僕のキャリアの叙述で、歴史的な金融市場の動向についても少しだけ言及したのですが、島村さんから、「読者の方から『喫緊の経済事情について、特に、アメリカの利上げとかについて、どのような経緯で、いつから、つまりリーマンショック以降のサブプライムや、欧米の金融緩和、ギリシャショックなども含めて)このようなFRBによる利下げ、利上げが世界経済に対して大きな変化を生むようになったのか知りたい』というような質問があるので説明してくれないか?」との依頼があったので、ちょっと今回は横道に逸れることとしてお答えしようと思っています。

 

上記の質問については、整理すると①アメリカの金利動向が世界経済に与える影響が大きくなってきたのは、どのような経緯、理由によるものか?という質問なのか、②FRBが利上げする、しないで世界経済が影響を受けるのはどのような理屈によるものなのか?という質問なのか、イマイチ判然としませんが、基本的に人からの質問には親切に対応することにしているので(自分から言うな!)両方にお答えしようと思います。

 

まず①ですが、こっちは簡単。第二次世界大戦以降米国が世界経済の覇権国となった(USドルが基軸通貨になったのはその一つの象徴です)ので、世界中の人々が米国経済の動向や、中央銀行(FRB)の金融政策に注目しているということです。イアン・ブレマーの2012年の有名な著作「Gゼロ後の世界―主導国なき時代の勝者はだれか」で指摘されたように米国の覇権にも黄信号が灯っており、世界経済への影響と言う点では中国との経済2強の時代になったというのが正しい現状認識という気もするのですが、依然世界のGDPの4分の一を占める米国は経済の超大国であることに変わりはありません。

世界全体に占める各国名目GDP(2016年、IMF予想)

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②についてはちょっと長い説明になります。

そもそも金利とはどんな要因で変動するのか?・・・それはお金(具体的には企業や国による借入)についての需要と供給によって決まります。

歴史的には、第二次世界大戦期の高金利、それに続く高インフレの時代を経て、1980年代から始まる世界的な安定成長、あるいは低成長の時代(言葉を換えれば、もう先進国における高成長の時代は終わったと言うこと)はインフレ率も低く、金利もどんどん低下していきます。

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そして2007年のサブプライム危機、2008年のリーマンショックでは、信用不安を避ける狙いで世界中の中央銀行が金融緩和を実施、その後の成長率低下への対策として財政政策をフル稼働させます。結果的に信用不安は回避され、景気も底割れを防ぐことが出来たわけですが、その負の報酬として各国共に大きな財政赤字を抱えることになりました。相対的に競争力が弱く、経済基盤の弱い国々、ヨーロッパで言えばギリシャやポルトガルなどは、経済不安が渦巻き、金利が高騰するようなことも起こりました。

 

こうした事象が起こる要因としては、以下の2点を挙げることが出来ます。

一つは、マネーのお話です。リーマンショック以降に世界中にばら撒かれたお金は、投資(あるいは投機)の場を求めて、世界中を瞬時に行ったり来たりすることによって利益を得ようとします。時には儲かりそうなら「空売り」を仕掛けることもあります。強いところにはマネーが大量に流入し、弱そうなところからは凄い勢いでマネーが流出する(下がった後で買い戻せば利鞘が稼げます)ということになります。強いところにお金を回しても既に価格は上昇しており儲けのチャンスは少なく、常にマネーは弱そうなところを探す性癖があるのです(日本のバブルの崩壊もその生贄になった点もあり、その後の「アジアショック」「ITバブル」「サブプライム」「リーマンショック」も皆、そういう側面がありました)。逆から言えば、That’s 資本主義 =資金(市場)が全てを決定する経済の体制、それが資本主義なので、仕方がないことなのです。

もう一つ指摘したいことは、政治の「ポピュリズム」化と言うことです。現代の政治状況では、景気が悪くなることは容易には容認されません。GDPと言うのはある期間(例えば1年間)に創り出された付加価値の総量であり、経済成長率と言うのはGDPなのですから、本来は成長率ゼロ、つまり昨年と同じだけ付加価値を作り出したということだって、「今年も頑張って、昨年並みの経済パフォーマンスだった」ということで、「それでエエヤン」という考えもあるのでしょうが、経済の場合そうはいかないのです。止まることが出来ずに、常に泳ぎ続けないと死んでしまうマグロのように、現代の資本主義経済では常に成長していかないといけないことになっているのです。そうでなければ政権政党も選挙に負けてします・・・そんな時代であり、資本主義と言うもの自体がそういう性格=成長することを前提として構築されている経済の仕組みなのです。

ちょっと余談になりますが、金利というのも実はそういう成長を前提としたものですね。Time is money. お金を持っていればそのお金は付加価値を生み出さなければならない、それが金利であるとも言えるわけです。

 

さて、では米国に今の状況はどんなことになっているのでしょうか?リーマンショック以降の低金利が、最近の世界的な不況懸念、たとえば中国の高成長の曲がり角、欧州での信用不安などの影響を受けながら、オバマ政権としても大統領選挙を控えで景気を少しでも上向きにさせたいという意図がFRBの金融政策にも影響を与えていると言って良いでしょう。そう簡単にFRBが現在の「歴史的な」金融緩和状況を止められない、ということなのです。実態経済の状況からすると世界の中でやはり米国の経済が一番強く、実はそんなに景気が悪いというわけではありません。よって、一旦FRB議長であるイエレン女史は徐々に政策金利を挙げることを表明したものの、その手綱裁きは極めて慎重に行わなければならない、という状況なのです。

 

さあ、こんな説明で少しは理解が深まりましたか?このHPの読者は公務員試験を受験しようという方が多いのだと思います。GDPって何だっけ?経済成長って何だっけ?金利って何だっけ?・・・分かっていますか?

正直、実際の社会において経済と言うものは、皆さんが公務員試験で勉強する経済学よりもずっとずっと色々な要因が絡み合った非常に複雑なものです。しかし原理原則である経済学の基本的な考えを身に着けておくことは、試験云々にかかわらずそれなりの意味があることだと思います。興味を持って勉強してみて下さい。

 

第12回 「彷徨の日々」

 

前回はスポット的にマーケットの話をしましたが、その前の11回がマーケットに痛めつけられ損失の重さの話、その前の10回がブラック企業さながらの忙しさの話ということでした。

さて、上記2つの帰結は何でしょうか?勘の鋭い方なら「大変だな、体大丈夫でした?」と思うでしょう。そうです。その帰結は心身の変調ということでした。体だけではありません、多分心も。

厳密に言うと、変調の原因は上記2つの要因だけではなかったと思います。一つは「35歳の壁」、そしてもう一つは「結婚」です。

 

前者はこういうことです。大体ビジネスパーソンという者は、入社以来何年かの修行の中で仕事を覚えていき、その中で自分なりに少しずつ自信めいたものを掴むはずです。30代になると、最初の役職も付き、現場の中では仕事を任せられたり、小さな集団のリーダー的な役割を担わされたりするわけです。そうして成長していくわけですが、35歳の前に頃になると、会社における自分の位置、会社における将来の位置、会社自体の現状といったものが客観的に「見えて」きてしまうのですね。それはビジネスパーソンとしては良いことなのでしょう。しかし、それは同時にフラストレーションを引き起こします。つまり、現状への不満、自分自身の飽き足りなさなどです。何かと今を比べることによるギャップですね。

余談ですが、2007年に多摩大学の社会人大学院で経営学修士(いわゆるMBA)を1年間非常勤で教えていたことがありましたが、土曜日や平日の夜に高い学費を出して勉強していた社会人たちは、大体この「35歳の壁」に直面し、それを学ぶことによってブレークスルーしようとするビジネスパーソンでした。2年間の修士課程を経て、知識によって武装して会社の中でステップアップしていく人たちもいましたし、転職や起業を実行する人たちもいました。35歳がビジネスパーソンの、あるいは人間としての、ステップアップのための一つの節目ではないかということです。

 

さて、話を戻しましょう。マーケットの中での辛さ、過酷な労働の辛さに加わったもう一つの要因である「結婚」についてです。僕は元々「嫁要らず」と友人から言われていたように、特に並外れた女好きというわけではなく(もちろん、嫌いではありません。ましてやアッチの世界でもありません)、他人との依存関係はあまり得意ではなくて孤独な時間があっても全然嫌でなく、いやむしろ一人の時間も家族があっても必要なタイプであって、また家事も基本何でもマネゴトでも一応全部自分で出来る・・・という人間なので、自分自身「結婚なんて出来るのだろうか?」と思っていたのです。が、いやいやビックリポン(半年遅れの言葉ですね)、28歳で交際3カ月にして結婚を決めてしまったというわけなのです。詳細はここでは書きませんが、要するに心身ヤバイ状況で「寂しい」ときの気の迷い?があったのか、あるいは運命だったのか、ヒョイと結婚してしまったことが、さらに自分に圧し掛かってきたということなのでした。これもプライベートなので多くは語りませんが、全く違う文化で育った二人の人間が「家庭」というものを構築していく苦労(「文明の衝突」というものは、家庭内では議論、つまり喧嘩や諍い、行き違いという形で表れ、それを経なければ相互の理解というものは進みません。結婚して30年以上経った今でも「夫婦は他人」と言うように、男女が互いに完全理解するなんて幻想でしょう。そう気づくまでが大変なのです)そして客観的に僕と言う人間を評価する身近な他者が出来たことによって、好むと好まざるに拘わらず「自分というものに向き合わざるをえなくなった」ということだったのでしょう。

 

数え上げれば4つの苦難の中で、心身は悲鳴を挙げます。80年代後半から90年代初めにかけては(つまり30代前半から30代後半)にかけては、朝起きても体がしんどく、歩くのも辛いという状況でした。あるとき友人とボーリングをやりに行ったときは衝撃的でした。投げるボール、投げるボールがガーターとなり、とんでもないロースコアをたたき出したのです。体の調整機能もズタズタになっていたのでしょう。しかしながら、人間ドックに行っても、悪いところはどこもないのです・・・。

 

心身ともに絶不調だったのですが、そこはどうしたものか、仕事だけはちゃんとこなし、それなりに出来ていました。いや、自己評価が高くて恐縮ですが、コンスタントに新たな成果を出し続けていました。仕事や生活において不都合を引き起こすことはあまりない・・・つまり、体や心が、ただただひたすらしんどかったのです。オールタイム能天気な僕ですが、さすがに「これは何とかしなければいけない」と思いました。

つらい気持ちからの解放からか、80年代後半からは自分の分身が主人公となる小説も書き出しました(以降30年弱時々執筆しています。その話はまた別途)。

自分を客観的にみつめ、将来を模索すること、そして生来の得意種目である「書くこと」によって、自分の中にある重たいものを吐き出すことによって自分を癒し、書くことによって自分を励まし、それを友人たちに読んでもらうことによって友人たちと繋がり、できれば友人たちにも元気を出してもらうことによって自分も満足する・・・そんな気持ちで3年に1作くらいずつ書き続けていますが、上記の「書くことの意味」は長い時間の中で整理してきた理屈であり、当時は「とにかく書かざるを得ない」心境で書いていたのだと思います。

 

そしてそれ以降様々なことをし、色々なことに気づき、そしてようやくこの苦難の日々を克服することになるのですが、そのときのことについては、次回にすることにしましょう。

 

人生山あり谷あり、谷のときにどう行動するか、どう克服していくか・・・そんなことの参考にしてもらえれば良い、と思っています。

 

 

第13回 「最悪期からの脱出、そして少しの成長」

 

絶不調、心身の悲鳴状態から、どうやって回復するか・・・前回、割と簡単な言葉で書きましたが、実際のところ本当に体調が戻るまでには5年以上の月日が必要だったように思います。

絶不調の理由は複合的で、結局色々上手くいかないことが圧し掛かってきていたように思います。今冷静に振り返ってみたときに、その上手くいかないことは、①仕事(激務、バブルの崩壊・・・)、②歩くのもつらいような体調不良の自覚症状、③すっきりしない心の不調、と総括できるでしょう。

 

一つ目の仕事面では、会社がバブルで大きな損失を被ったこと、そしてそのことに対して自分自身が責任を感じていた、つまり贖罪の気持ちが大きかったように思います。

このことについては、あるとき同期のM君とランチをしていて彼に言われたことを良く覚えています。多分僕は、「自分では一生懸命仕事をしてきたつもりだったけど、散々な結果に終わってしまった。これからどういう思いで仕事をやっていけば良いのか?」というようなことを彼に話したように思います。その疑問に対する彼の答えは極めて明確でした。彼は全米有数の大学でMBAを取得(実際は、MBA派遣の制度が会社にないときに、上司にMBA留学したいと直訴し、人事からOKをもらわない段階でこのトップ大学のMBAの入学許可を得て、会社に認めさせてMBA留学を果たしたという行動力の持ち主です)「自分は海外で勉強し、この会社の問題点を明確に理解している。バブルの崩壊で手酷くやられたのも会社としての資産運用に関する体制が整っていなかったからだ。この会社を欧米の会社と競争できるような体制にするために具体的に行動していく」というものでした。彼の明確で一貫した考え方は僕自身の目の前に立ち込めていた雲を駆逐し、光明を見せてくれるようなものだったのです。

上記「一貫した」と書きましたが、実は彼とは、バブルの崩壊の前から、他のもう一人の同期のN君(そっちの彼はアメリカのロースクールに留学)と3人でプロジェクトを(会社から指示されたのではなく勝手に)立ち上げ、会社を説得して、海外の金融機関と資産運用に関する合弁会社を設立し、そのことによって既に会社の資産運用部門に近代化(要するに、理論に基づく客観的、定量的なリスク管理、体制構築といった内容)を図ろうとしていたからです。M君は、「俺たちのやっているプロジェクトに具体化されていることは間違っていない、だからそれを推進していくことが大事なのだ。何を迷っているんだ」と言いたかったのでしょう。現実と理想をきちんと整理し、間違ったことを糧として前に進んでいくということです。

このM君とのランチが先だったのか、それともそれより前に既に自分が行動していたのか今は記憶が曖昧なのですが(多分時間の経過を辿っていくと後者です)、僕自身、ファンドマネジャーという仕事にはおさらばし、資産運用部門の体制刷新を担当する部署への異動を役員に提案、認められていました。そこで最初に行ったことは、自発的に反省=総括、のレポートを作成することでした。あまり具体的に書くのは守秘義務にも抵触しそうなので割愛しますが、要するに上記M君とのランチで気づかされた「現状の体制の不備、改善の具体的な方策」をまとめ、関係の同僚、先輩、役員にばら撒き、その主張のいくつかは即実行されることになりました。

ただこのように書くと、悪かったことが全て良いことに転化していくような印象を与えるかもしれませんが、現実はそんなに簡単なことではありませんでした。バブルの崩壊で会社が負った傷跡はあまりに大きく、それを時間をかけて癒していくことは大変な労力を要したわけですし、責任の(少なくとも)一端があった僕としても、針の筵の上を歩きながら改革についての提案、実行をやっていたというのが真実です。担当が代わって、自分の代わりに後始末をしてくれた同僚たちには今も申し訳ない気持ちがあります。

 

バブルの崩壊で、自分自身の会社における仕事に取組む考え方は大きく変わったのです。それまでは、与えられたことを100%以上の出来で仕上げること、そうした過程の中で自分が成長していくこと、が仕事を行っていく原動力だったと思うのですが、バブルの崩壊以降は、贖罪の気持ちをベースに、自分を捨てて(つまり出世だとか、自分が充実した仕事をしていくといった自分本位の気分は捨てて)傾きかけた会社(バブル崩壊後、ほとんどの金融機関は傾きました)を何とか立て直すことを、仕事を行う上での最優先事項とすることにしたのです。80年代後半からは金融マンとしての自分の能力にもそれなりに自信が出来、転職といった話も身の回り、あるいはマーケットで同じように戦っていた知人には普通のことだったのですが、「贖罪を済ませるまでは、この会社を辞めることはできない」、一種の使命のようなことを持って仕事をしていたのでした。実際、90年代に入って、(これも守秘義務があり具体的なことは書きませんが)自分自身の40年弱のビジネスライフの中でも「エクセレント」と自己評価しているような顕著な業績も挙げることが出来たと思っています。

 

要するに、ウジウジ考えていずに、とにかく目標を明確にして、行動していくということです。失敗したことは取り返しがつきません。であれば、それをリカバーするために必死にやるしかありません。行動すれば、見えてくるものもあります。それが成長ということなのでしょう。失敗のないところに成長はありません。これは、人生で何度も失敗し、何度も奈落の底に突き落とされて、なんとかそこから這い上がってきた人間としての若い皆さんへのメッセージです。

 

二番目、三番目の体調、心の問題については、次回書くことにします。

 

 

第14回 「体、心を整える」

 

バブルの崩壊で心身ともに痛めつけられ、35歳にして奈落の底で呻吟していた僕が5年、10年といった時間を経て復活していくきっかけについて、前回は仕事におけるマインドセットのチェンジについて書きましたが、今回は、「体」の問題、そして「心」の問題について、その整え方について自分の経験を書きたいと思います。今、辛い思いをしている人、今後山あり谷ありの人生の中で困難にぶち当たるであろう人(多分大半の人が、長い人生の中で1度はそういう経験をするものだと思います)の参考になれば幸いです。

 

仕事はちゃんとこなしていたものの、毎日体がだるく、歩くのも面倒な感じで日々が過ぎていきました。元々体育会体質なので、最初は、「汗かいて、体力を消耗すれば気も晴れるし、元気になれるかも」といった安易な気持ちから、毎晩夜のランニングをしてみたりしたのですが、逆効果、却って体調が益々思わしくない状況でした。

幸いにしてというか、偶然あるいは運命的な必然かはわかりませんが、家内が健康に興味があって、その影響か、世の中には西洋医学以外にも色々な健康法、民間療法があるのを知っていました。人間ドッグに入っても、「どこも悪くない」という結果なのです、そうなるとこうした代替医療の出番ですね。色々調べて片っ端から試してみました。西洋医学は対処療法が中心で、薬や手術などの人工的にあるいは強制的な施術によって疾患を直そうというのに対し、東洋医学は全身医療、病気の原因と考え、病気と共生しながら体の持つ潜在的な治癒力を活かそうとします。そういう考えは当時の僕には新鮮でした。

ある時会社の先輩に鍼治療の大先生を紹介してもらいました。この先生、大企業のお偉いさんや金融機関のエグゼクティブしか診ない方です。しかも、鍼治療を始める前は西洋医学のバリバリの先生で、あるときから西洋医学の限界を感じて鍼治療の先生になったというお方でした。最初の治療のとき、先生は僕の脈を診て即座に言いました。「貧脈ですね」、つまり脈が弱い、要するに体が極度に弱っている、生きる力が枯渇している、というのです。どうやら心身に降りかかってきた過度のストレスで体が悲鳴を上げているというわけです。1回8千円もする施術だし、場違いなので、施術自体は4回位で終わりにしてもらいました。目が痛いと言ったら、目の周辺に鍼を打ってくれたり、お陰で目の具合が少し良くなったりということもありました。

鍼については高校のサッカー部のときに先輩に紹介されて筋肉系の治療で経験していたこともあり、やはり対処療法ですから、長い間これだけに頼るのは好ましくないことは知っていました。僕としては、原因がわかった、ダルい原因がはっきりしたわけですから、あとは体に良いこと、生命力を回復するあらゆることをすれば良いのだと前向きになれたことが大きかったのです。それからは健康法を色々試し、良いものは今でも継続しています。

 

健康に良いことは今でも継続して色々やっています。例えば今日の朝から寝るまで、やること、やっていることをちょっと書いておきましょう。

 

もちろん朝は早起き、つまり早寝早起きです(歳をとって最近では長い時間眠れなくなりましたが、基本、毎日ほとんど夜眠れないということがありません。寝床に入ればコテンと直ぐ寝られます)。朝起きると、まず足モミローラーで足のツボを刺激しながら新聞のテレビ欄、スポーツ欄など軽めの記事、ネット上のニュース、スポーツニュースなどをチェックしながら頭を始動させます。自分で朝食の準備(野菜をちゃんと食べるパン食)をし、体を温め消炎効果のある生姜茶をたっぷり摂ります。ルーティーンの快便、酢の飲み物を少々、朝食の片付け、ゴミ出しなど分担する家事を済ませ出勤します(体に良いこと以外では、TVの録画、コンタクトレンズの装着、駅までの英会話のポッドキャストでの速聴などもやります)。電車の中で寝ないようにして日経新聞を隅から隅まで読んで、フェイスブックをやり、今なら授業の資料作り等の仕事を集中して済ませる・・・・睡眠時間が足りていないときはウツラウツラすることは生理的に重要ですが、いつでも電車で寝ていては、時間がもったいないですし、夜も眠れなくなるのではないでしょうか?基本日中は全力投球、セセコマシク生きることが快眠のためにも大事だと思っています。

寝る前は、寝床で腹筋の運動などを軽く行い、耳核(三半規管)の過去疾患からのリハビリのために数分体を動かし、数十秒ヨガのポーズで血流を変化して、それから眠りにつきます。55歳位前までは冬も含め数日に1回は夜にジョギングをしていましたが、今では週に一度のジムや週末時々のサッカーの試合位が運動の全てです。

週末にはジャズサックスで腹式呼吸を思いっきりやり、アドリブをして脳を刺激することも忘れません。それと重要なことは暴飲暴食をしないこと、お酒は疲れたとき、宴会のとき以外は飲みませんし、もちろんタバコは高校生のときに止めたので、以降は完全な禁煙者です。

 

健康法については、いや健康に限りませんが、大事なことは継続することだと思っています。そして継続するには、とにかく無理をしない、無理なことをしないことに尽きます。継続出来そうもないことは始めないし、継続出来ることを始めたら、それはずっと継続します。淡々と、習慣としてルーティーン化することですね。

 

リズムのある生活を行うことが健康には大事だと思います。健康ということでは、本当にここ何十年も病気で仕事を休んだ記憶がありません。あるのは、ノロウイルスで1日休んだこと、そして病気ではありませんが、サッカーでアキレス腱を断裂して手術で1日だけ休んだこと位です。もちろん熱を出したり、風邪をひいたりもしますが、大体緊張感が緩む週末であり、月曜日の朝には会社には出られる位には回復してしまうから不思議です。

 

仕事が嫌でないことも、仕事を休まない原因かもしれません。最初の転職をしてからの16年も激動の、そして大変過酷なビジネスライフだったのですが、不思議と仕事を嫌になったことはないのです。

 

それはやはりメンタルな、心の問題なのだと思います。本当は今回は体だけでなく心も問題も採り上げる予定だったのですが、随分長くなってしまったので、今回はここまでとし、心の問題(そちらの方が体の問題よりもずっと重要なのですが)については、次回にさせていただこうと思います。きょうは高崎線の、大学のある岡部から、今池袋あたりまで、座席に座りながらこの文章を書きなぐっていました。そろそろ新宿で乗り換えなければならないので、この辺で筆をおきたいと思います。

 

それでは次回。

 

 

第15回 「自分を見つめ直す」

 

体の不調、そして回復について前回は書きましたが、今回は心の不調、つまり精神状況の不安定さについてと回復について書きましょう。と言うか、多くの体調不良は、「病は気から」つまり心の変調を原因にしているのですから、心身の不調に関する根本原因について書くということですね。医学的にもストレスは、デリケートな免疫システムの働きを阻害することは確かめられており、今や国民病とも言うべきガンについても、ストレスがその発病に影響していると言われています。

僕の場合は、バブルの崩壊に際して奈落の底に突き落とさられた・・・というのがわかり易い説明ではありますが、それ以外にも、お金を扱う仕事(金融という実態の乏しい仕事)をずっとやっていて良いのかという自問や、そもそもどうやって人生を生きておくべきかという根本的な問題を(頭が痛くなるくらい)真面目に考えたことがない・・・ということも大きな原因だったように、今は思います。能天気なお気楽性格で、目の前のことに懸命になり、その中で楽しみを見つけてきた、そんなことが「大人」になり切れない自分からの脱皮が求められていたということではなかったのかと思うのです。当時35歳頃ですから、イヤハヤ昔の人々に比べたら情けないほど遅い話ですね。。。

 

つまり、バブルの崩壊ということを一つのきっかけにして、「自分を見つめ直す」必要性に直面したということではなかったかということです。

 

結論を先取りして言うと、人生は山あり谷あり、良いことも悪いことも起こりますが、「谷」のときが大事であり、谷に際してどう行動したかということが、その後の人間の人生を良くも悪くもするということなのです。挫折、蹉跌、大失敗・・・具体的には、進学に関すること、就職・転職・失職、仕事に関すること、結婚・離婚・別居、大事な家族との離別など人生には「これまでの人生で経験したことがなかった悲劇」があなたを襲います。もちろん人生一度もそういう目に合ったことのない幸せな人もいるかもしれませんが、そういう人は今後、満を持して起こる大参事が起こったときに、「人生の幸せと不幸は見合っている」といった先人の箴言を味わうことになるのかもしれません。

問題は、不幸なことが起こることが問題でも、不幸なことは起こらない方が良いといった話ではなく、不幸は必ず起こることであり、それはあなたを悲しませることでもなければ、人生の哀感を味あわせるために起こるのではなく、あなたを「成長させる」ために起こるのだということなのです。あるいは、成長させてくれる不幸を、ただ不幸としてやり過ごし、成長する機会を逸してしまうことがないよう、と思ってオジサンはこの文章を書いていると理解していただいても良いかと思います。

 

一般論を先に書いてしまいました。より具体的な僕のケースについて戻りましょう。

バブルが崩壊する前後に、体調はボロボロになり、様々な治療を試したりしたわけですが、空しい気分、満たされない心は依然残りました。それまで「ファンドマネジャーとして少しでも良いパフォーマンスを上げたい」とか、「欧米の一流の金融マンに負けたくない」といった目先の目標に代えて、「自分が大きく係って大きく傷ついたこの会社を何とかしたい」という目標は定まったものの、自分自身の今後のことを考えると、何か体に穴の開いたような「欠落感」が広がっていたのでした。非常に厳しい現実をどう整理し、考えるか、「模索」が始まったのです。

それまで、映画、読書、音楽、美術、芝居・・・・色々興味を持って空いた時間で積極的に観に行ったりしていたのですが、自分の心にフィットするものが、どんどん内面的なものになってきました。それまでも、エンターテインメント系もの(娯楽色の強いもの、ばか騒ぎしても楽しめれば良いといったもの)はあまり好きではなく、ペーソスに満ちたもの、あるいは人生を感じさせてくれる人間ドラマとか心が温かくなるものが好みだったのですが、こうした傾向が、バブルの崩壊の1990年代益々強まりました。社会の矛盾とか、人生の辛さとかを描いたものもそれ以前は読んでいたのですが、あまりにも悲惨なものは読むのが辛くなっていました。恐らく模索している自分を重ね合わせて受け容れ難かったのかもしれません。暗い内容でも、最後に救いがあったり一筋の希望があるものに涙ぐんでしまうような感じだったような記憶があります。心が栄養を求めていたのでしょう。

 

自分のそのときの心情に合うものを色々探し、読んだりしているうちに、哲学や宗教に関する本を沢山読みました。それが、結局自分を見つめ直し、生きるエネルギーを再度与えてくれるものだったように思います。哲学や宗教についは、それまでは全くというほど向き合うこともなく人生を過ごしてきたわけですが、ようやくこの時期に出会ったのでした。宗教については、かつても今も特定の宗派に属するわけではない「無宗教」ですが、宗教的なことはこのときに大分理解し、宗教的なことを理解していない人は弱いのでは?と今では考えるようになっています。

色々出会った本に中では、「中村天風」と「シャーリー・マクレーン」の本に引き付けられました。前者は、日本の財界重鎮たちの中で信奉する人も多い著作、後者は元々女優であるシャーリーが人生の中で出会った精神世界のことを綴った、ちょっとオカルトチックなところもある著作という違いはありますが、共に仏教を土台とした東洋思想に根差した精神運動ともいうべき「ニュー・エイジ」というものの系譜の中に位置づけられるものです。

両者の考え方、主張については本を読んでいただくのが一番良いと思うのですが、僕としては、今まで聞いたこともなかったようなことを気づかせてくれるきっかけとなったのです。それを以下少しまとめておきましょう。

 

まず人間は基本的に自由であって、自分の生き方は自分で選び、前向きに生きようとすれば人生を意味のある楽しいものとして生きられるようにできているということです。自分の身の回りに起こるものは自分が引き寄せていることであり、その身の回りに起こることを通して人間は成長していくのだということです。例えば、自分に不幸な出来事が起こる場合も、「どうして不幸なことが、よりによって自分の身に起こるのだろう。私って不幸だ」と嘆き悲しむのではなく、「なぜこんな不幸が私に起こるのか?これは何か転機や変化のきっかけなのではないか?私自身が変わらなければならないことがあるのではないか?」と自省し、行動を変え、より生き生きと生きていこうという風に考えるべきだというのです。例えば、「自分は本当に感謝の心を忘れていたのではないか?本当に大事なことを忘れて、人間の本姓に逆らうことをやってきたのではないか?」と考えてみるというようなことですね。

もう少しオカルトチックに言えば、人は生まれた時からそれぞれ生まれ持ったカルマ(業)を背負っており、それを解決するために生き、苦闘の中で解決しながら魂を浄化して、少しはマシな人間になって輪廻転生しながら成長していく・・・といったことです。このオカルトチックなことは、もちろん正しいか確かめるスベもないのですから、信じるかどうかは、正に宗教チックな考え方の問題なのですが、そういう仮説で物事を見直してみれば、自分に降りかかる不幸も「なあんだ、これを解決するのが自分の生きている運命の一つなのね」と割り切って、感情的になることもなく、場合によっては味わったり楽しんだりしながら向き合うことも出来るというものです。つまり、そういう風に考えると苦労といったことも客観的に「受け容れ」られることなのです。「受け容れる」という言葉一つのキーワードであって、自分の身の回りに次々と起こる出来事を過去の出来事とつなぎ合わせ、これから起こる未来の出来事の中で、その意味を考え、身の処し方を考え、どうやって生きていくのかをいつでも主体的に選び取っていくということが大事なのでしょう。

 

さて、結構長々と「自分を見つめ直す」ということについて書いてきました。実は、このエッセイみたいな駄文を書いてきたのも、今日書いたようなことを若い人に伝えたかったというのが大きな執筆動機だったので、つい力が入ってしまい長くなってしまったということなのです。

ただ白状しておかなければんらないのは、上記のような心持ちも、本を数冊読んで納得したという簡単な話ではなく、思いだすに、10年といったそれなりに長い期間を通して、少しずつ考えていく、納得していったことによって獲得してきたこと、というのが真実です。それだけ自分の心を整え、見つめるという作業は時間がかかり、大変なこととも言えましょう。僕の場合、バブルの崩壊の痛手から真の意味で開放され、新しい人生を切り拓いていけたのは、バブルの崩壊から10年が経過した2000年、初めて転職を決断したとき以降のことです。

 

次回は、90年代、仕事の面では悶々としていたのですが、どうやって転職を決断していったのか、そんなことを書いていきたいと思っています。

 

 

 

 

第16回 「最初の転職に踏み切るまで」

 

1990年にバブルが崩壊して、2000年に初めての転職を経験するまでの10年間は、13回に書いたように「贖罪の気持ち」で過ごした10年でした。本当に潰れそうだった会社の建て直しを自分なりにどうやっていくのかを仕事では第一に考え、同時に一旦壊れてしまった体調とマインドをどう回復するのかを模索していった時期でもありました。

 

そして10年が経ち会社を辞めることにしました。

 

若い人たちは、いや日本のビジネスパーソンの場合、まだまだ転職経験というものは少ないのかもしれません。もちろん傾向としては、産業界で優勢だった神話、その中で最たるものであった「終身雇用」慣行(大学生の頃、経営学の先生が「制度じゃなくて慣行ですよ」と教えてくれたのを今でも覚えています)もどんどん崩れてきているのが現状ではありますが、こればっかりは「経験したことのない人はさっぱりわからない」世界なのだと思います。僕自身もそうでした。ファンドマネジャーという役割上、有価証券や為替の発注者として証券会社や銀行の人にチヤホヤされ、日本人では当時あまり経験者のいない分野で仕事をしていただけに、80年代後半から90年代にかけては、社内外の身の回りで外資系金融機関などに転職する知人が沢山いて、何となく「転職っていうのを自分もいずれするのかな?」とは感じていたのですが、「どうやって意思決定するんだろう、何がきっかけになるのだろう」とずっと疑問に思っていました。

 

その疑問に明確に答えてくれたのが、大学時代の友人のT君です。彼は90年代に某放送局の政治部記者から政治家へと転身しました。元々親が政治家をやっていたのでそういう志向があったと思うのですが、彼がこういうのを聞いて心の底から腹落ちしたことを覚えています。「人間って言うのは、本当に嫌で嫌でたまらくなったときに転職するんだよ。そうでなければ転職なんかしないよ」と転職直後に(彼の場合は転進と言った方が良いように思います)彼は言いました。人間、転職とか結婚とか人生の重大な意思決定においては、金銭的な待遇だとか地位とか、そう計算づくの判断はしないものだということでしょう。ただただ、我慢できないほど嫌になるときに人間は転機を迎えるというわけです。

 

僕の場合も2000年に転職した当時の気持ちは、「もう本当に嫌で嫌でしょうがない。何年も我慢してきたけれどもう限界」という感じでした。自分としては自分というものを捨てて会社を何とかしたいという純粋な気持ちで懸命に仕事をしていたのに、周りの人たちの中、特に当時の上司などは「会社は絶対安泰」という危機感ゼロの状況。「とにかくお前はもっと出世のことを考えた方が良い」と自分の偏狭な価値観を押し付けてくるようなありさまでした。

詳しくは守秘義務の問題もあり書けませんが、当時の経営陣が、業績の落ち込みに対して目先の売上数字を高めることばかりに終始したことが、僕の神経を逆なでしました。基本的に僕は合理主義者なので、会社存亡の危機に当たって(当時の経営陣はそう思っていなかったようですが)、「自分の業務の中で会社を良い方向に変えていく」努力をせずに、目先の数字に走ることが許せませんでした。僕の目には「真面目に仕事をしていない」と映ったのです。自分としては、色々チャレンジし、90年代の前半はそれなりに会社の改革に大きく寄与したという自負がありました。また90年代後半においても、改革のためのソリューションを(自分一人の成果ではありませんが)示すことが出来ているという自負もありました。孤軍奮闘、改革のために身を粉にしてやっていると思えば思うほど、経営陣の危機感の乏しさに対して、腹が立つやら、空しい気持ちになったのを覚えています。「どこでも同じ」という方もいるかもしれません。客観的には単なる空回りだったかもしれませんが・・・。

 

因みに、先日いつも観ているTV番組である「久米書店」(知性では当代随一の女性タレントである壇蜜と久米宏が本の著者をゲストに本について語り合う番組)で斎藤環という精神科医が、「人生で起こることが全て奇跡だと思えれば『幸福感』を強まるし、起こったことが全て必然だと思えれば『自己肯定感』は強まる」と言っていました。

 

この言葉を聞いて、「そうなんだよ」と膝を打ちました。今から思えば、90年代、色々苦しんだのも、上記のような会社のありさまも必然だし、転職したのも必然です。そして一度心が決まれば、物事は必然に向かってどんどん進んでいくのです。その後の転職のときもそうですが、「我慢できない位嫌になって、会社を辞めようと思ったとき」からどんどん会社の中での自分の立場が悪くなるようなことが起こったり、とにかく清水の舞台から飛び降りるための布石を神や天は打ってくるのです。

 

転職しようと決めた僕は、人事異動を訴えました。転職するに有利となるスキル、つまり社会で「食えるスキル」である資産運用の仕事に戻してくれるように頼みました。そして2年半、錆びついていたスキルを磨き直し、もう大丈夫だと思って懇意にしているヘッドハンターにコンタクトしました。幸い直ぐに転職先は見つかりました。かなりの好条件でもありました。そして、また退職金の金額に有利になる勤続年数に達する歳に達する誕生日(あれれ、この原稿を書いている今日8月27日が僕の誕生日です。やはり全てのことは奇跡です・・・)をXディと定め、未消化の有給休暇を計算し、退職前の家族旅行も決め、そして会社、同僚に退職の旨を伝えました。昔からの仲間たちは別れを惜しみ、これまでの苦労を労ってくれましたが、人事部の対応には怒りを感じたことを覚えています。まあ、過ぎたことなので詳しくは書きませんが、法的なことやコンプライアンスのことも知らず、また終身雇用慣行の古い価値観で対応をしてきた人事部には幻滅しました。そして「もう自分の贖罪の旅は終わったのだ」とせいせいし、退職にあたっては入っていた自社の生命保険を全て解約しました。そうやって会社の馬鹿な行いに自分なりに落とし前をつけさせてもらったと同時に、過去を捨てて新たに生き直すことを心に誓いました。

 

本当に久しぶりに行ったアメリカ家族旅行は、希望の心で満ち溢れていました。マイアミで空を見上げると、青い空に虹がかかっていました。これからの人生を神が祝福しているように感じました。

 

人生捨てたものではない、全て起こることは奇跡であり、必然なのです。あれからまた新しい人生を送っている61歳の誕生日に16年前の日々を思い出し、心からそう思っています。

 

 

第17回 「読者の質問に答えて」・・・(①「金融業」ってどうよ?)

 

前回、僕の転機の一つであった2000年の最初の転職について書きました。これまでは就活の頃から、時間の経過を追って書いてきましたが、2000年以降これまでの人生については、本当に山あり谷あり、波瀾万丈の転職や挫折の歴史なので、読んでもらえばきっと面白いのでしょうが、正直守秘義務だとか、書いた相手を傷つけてしまう可能性だとかがあり、時間の経過を追って詳細に書くことが憚られます。そこで、今後何回かはちょっと趣向を変えて、読者の質問に答える格好で若い人の参考になりそうなことを書いていくことにしました。

その第1回目としては、「就職先(あるいは転職先)の候補として、金融はどうなんですか?」と言う質問・疑問への、「その業界約25年いて、もう戻りたくない」僕なりのお答えです。

 

金融と言うと一般に人にはわかりにくい業種のように思います。「ナニワ金融道」のような漫画が金融に関してはビビッドに描いている、という話はありますが、僕自身漫画は読まないのでわかりません。テレビだったら、かなりのテレビフェチなので、語れることがあるかも・・・と言うことで、とりあえず世間に知られたテレビドラマでは「半沢直樹」でしょう。

半沢直樹は、堺雅人演じる銀行マンが銀行内の悪人を懲らしめていくという「金融版水戸黄門」的なストーリーです。僕は銀行そのものに勤めたことはありませんが、生保や投資顧問業には長年勤め、銀行や証券会社の人たちとは何年も付き合ってきたので、彼らの生態は良くわかっています。半沢直樹を観ていて、まず指摘できることは、下記3点です。

①  銀行内では非人間的な足の引っ張り合いが横行している、という描かれ方がされていますが、あれは本当のよう。

②  しかし、あんなに法を犯したり、行内規則を破ったりというようなことはありえない。

③  銀行は「雨の降る傘の欲しい日(業績が苦しくて資金が欲しいとき)に傘を取り上げ(融資を引き揚げ、あるいは新規融資を断り)、晴れの日(業績が良くて資金が要らないとき)に、傘を差し伸べる(融資を受けることを強要する)」と言われるが、それは本当。

 

「③」についてだけ解説しておくと、銀行と言うものが慈善事業ではなく、利益を挙げなければならない上場企業であることを考えれば当然と言えば当然のことです。但し、それでも銀行家の矜持とばかり業績が悪い企業でも経営者の力など本当の実力を評価して貸そうとする場合もかつては多かったように思います。しかしながら、1970年代の住宅専門金融会社(住専)に対する不良債権頻出や1990年代後半の金融危機などの経験から、銀行業務は監督官庁である金融庁のモニタリングがキツくなり、業績の悪い企業への融資は金融庁による検査時に指摘(半沢直樹のときも最近藤原紀香と婚約した片岡愛之助が演じた検査官の検査のように)受けるようになり、しにくくなっているという面もあります。その結果として前述の「晴れの日の傘」のような事態になり、多くの金融機関が優良な借り手に殺到して貸出金利がダンピングとなって預貸利鞘(貸出金利-預金金利)が縮小してしまっているという銀行の収益構造としては極めて深刻な事態となっているのです。

 

前にニューヨークの研修でお世話になったTSさんの話を書きましたが、TSさんが僕に最初に会ったときに、「あなたの会社のKさんと言う人は、父の会社が苦しかったときに融資をしてくれて、破綻後もサポートしてくれた。あのときのことは一生忘れない」と言って僕を歓待してくれました。会社にとって一番大事なことは「資金繰り」であって(だって、資金繰りが窮すれば、たとえ黒字であっても会社は破綻します)、そう意味で銀行などの金融機関は企業の生殺与奪の権利を持っており、そういう極めてクリティカルなポジションにいるということが金融機関の難しいところでもあり、存在意義でもあるのです。

 

存在意義と書いたところで、金融機関、特に銀行にとっての存在意義は何か、ということを整理してみましょう。それを考えることが、銀行が今後も社会的に重要な会社であり続けられるかを判断できることになるからです。

銀行が免許事業として監督官庁によって管理され守られる理由は、社会の信用秩序を守る特別な役割があるからです。具体的には、「融資」と「資金決済」です。「為替」、この言葉は通常一般人の間では「外国為替」つまり通貨交換のことですが、正しくは例えば「為替手形や小切手、郵便為替、銀行振込など、現金以外の方法によって、金銭を決済する方法の総称である。 遠隔地への送金手段として、現金を直接送付する場合のリスクを避けるために用いられる」などと定義されていますので、この「決済」と言う言葉と極めて似通った言葉であり、「決済」に包含されます。これ以外に「預金」(資金を預かって付利すること)というのも銀行だけに許された行為ですが、融資のための源資を確保するという位置づけでもあり、資金決済の場としての顧客勘定でもあり、またそれそのものが信用秩序を維持するための仕組みではないので、融資と決済が通常、銀行だけに許された重要な役割だと考えられています。

両者とも、信用というものをベースに構築されているこの資本主義の世の中では(言葉を換えて言うと信用という「幻想」を皆が信じているこの資本主義の世の中では)、非常に重要なものであり、これが揺らぐと大変なことになります。ですから、リーマンショックとか、金融危機のときなどに、証券会社は平気で潰されるが銀行は簡単には潰せない、ということになるのです。

ところが、この2つの業務、共に、規制緩和で銀行(融資と言うことだと昔から生保、損保、農林中金なども融資は出来ます)以外でも形を変えてできるようになってきています。もちろん「マチキン」と言われる街の金融業者、「サラキン」だけでなく、クレジットカードの会社だとか(これも一応金融機関にカウントされます)にも融資業務は拡大されてきていますし、決済についても規制緩和によって銀行などの金融機関以外にも一部許されるようになっています。

但し、実際のところ、こうした規制緩和の動きは、銀行の儲けすぎ批判をかわすための部分緩和という側面もあり、やはり銀行が融資や決済の中心であることに違いはありません。

ただ、最近こうした状況に変化の兆しがあるように僕には思えています。それがインターネットを使った「フィンテック」の動きです。フィンテックと言うのは銀行を始めとする金融機関の業務を、インターネットという基本的に規制の少ない場所で、簡便にコスト少なく、便利にやれる仕組みを作っていくということなのですが、実はこれって、これまで規制というもので守られていた金融機関の権益がネットという事実先行の場で切り崩されていく、ということに他なりません。もちろん監督官庁は黙っていないですし、銀行などの方も防御策を採ろうとしていますが、普通の商売の世界で、例えば本の販売の世界でアマゾンが大きくシェアを伸ばしているように、大きな動きになっていく可能性は大であると僕は思っています。

 

しかし、フィンテックなどの動きが銀行などを脅かすには多少時間がかかるでしょう。銀行の収益における問題として、足元もっと大きなことは、前述のように資金がだぶついて過当競争になっていることでしょう。だって、そうでしょう。リスクを取らない融資や信用という看板に守られている商品は「コモディティ」つまり誰でも提供できる商品なので、マージンがどんどん減っていくというのが大量消費社会における常識であり、必然なのです。だから、銀行は本業たる融資や決済では儲からないようになっているのです。因みに証券会社の株などの有価証券の販売、生保における保険商品の販売なども同様の傾向があります。

 

では、銀行はどこに行くのか?メガバンクはM&A仲介などの「投資銀行業務」や「資産運用業務」、地銀などは地域の企業への融資を拡大していく「リレーションシップ・バンキング」に活路を見出そうとしています。皆、コモディティではなく、ナレッジがモノを言う世界であり基本的には収益性は高いと考えられます。しかしながら、ここで問題になるのが日本の銀行のプロフェッショナリティということです。例えば、投資銀行業務では、世界の投資銀行の代表であるゴールドマンザックスと競争しなければなりませんし、資産運用業務の顧客リスクで行う運用業務ではブラックロックやフィデリティにかないませんし、自分でリスクを採って行う投資運用業務では、プライベートエクイティのKKRなど、ベンチャーキャピタルではシリコンバレーの沢山のベンチャーキャピタルの足元にも及びません。突き詰めて考えると、グローバルにお金が行き来する今の社会で日本の金融機関のお先は真っ暗と言わざるを得ないのです。

 

しかし、現在のところは銀行などは大変儲かっています。それは、例えば短期金利が馬鹿みたいに安く、ほとんどゼロの金利でお金が調達できて、それを多少は金利のある中長期の国債などに投資していたり、融資がそうは言ってもまだ余地があったり・・・ということですが、金融の一層の緩和で資金はどんどんジャブジャブになって融資のチャンス、利鞘が更に縮小し、国債金利も長期金利がどんどん低下しているという状況では、本当に目先真っ暗というのが銀行経営者の偽らざる心境ではないでしょうか。フィンテックの話も、そうした金融機関の焦燥を募らさせています。こういった話は資金運用先に困っている生保だとか、手数料の安いネット証券にシェアをどんどん奪われてきている証券会社にも言えることです。

 

以上、思いつくままに銀行を始めとする金融機関の現状について解説してきましたが、僕自身、金融機関に長くいて批判的、客観的に見てきただけに「辛口」過ぎると考える人もいるかもしれません。就職先、転職先と言う観点でみたときに、給料は他業界見ればかなり良い、定年後の銀行が面倒見てくれて再就職の可能性も高い、社会的ステイタスが高くオフィースも綺麗(綺麗なオフィースでないと信用されません)だし経済の中心地で働ける・・・そういったメリットはあります。左記のことを否定するものではありません。そういうことがお望みなら金融機関、特に銀行はお薦めです。

 

ただ、こういった点も最後に指摘しておきたいと思います。金融機関というものは、「(お金と言うもの以外)何もない」業種なのです。メーカーなら何かを作ることで、小売業であれば何かを売ることで、社会に役立ち、顧客から喜ばれるということがあります。でも金融機関と言うものは、お金をそういう会社に融資したり(お金を融通するのが金融の意味ですね)して、社会的責任を果たすのであって、あくまでも「脇役」「サポート役」でしかないのです。ここ4~50年の信用が大膨張した時期には、その資金の有効活用を巡って、金融機関が活躍したと言うことは理解できないこともありません。しかしながら、そうした脇役があまりにも前面に出過ぎ、就職ランキングで上位に来るような社会を、僕は良い社会、健全な社会であるとは思いません。金融機関はもっと地道で、分をわきまえた存在にならないといけない・・・それが米国などでの潮流ではないかと思います。

 

現に、僕の大学時代のクラスメートは、経済学部だったこともあり、大半が銀行に就職しました。で、どうなったか?それをお話ししましょう。もちろんそれなりに裕福な暮らしをしていたり、責任あるポジションをやった人も多いでしょう。でも、大概は銀行の大合併に翻弄され、苦難の社会人ライフを送ったようです。また、聞くところでは、超優秀な人ばかり集まる集団の中で(半沢直樹のドラマのように)足の引っ張り合いの末、嫌気がさしてしまった人も多いようです。何より僕が、金融機関の外の世界に出て感じるのは、「金融機関は優秀な人材を飼い殺しにしてしまうところ」ということです。金融機関の中で、超優秀な人たちが出世競争で足の引っ張り合いをしているくらいなら。外に出てその優秀さを活用して社会や会社を良くすれば良いのです。

例えば、僕自身「デリバティブの開発」と言うのをやっていたことがあります。金融工学によって良い資産運用モデルを開発するといった仕事でした。もちろんそういう業務自体を否定するわけではありませんが、日本を代表するような数学のエキスパートが金融機関にどんどん採用されていくさまには異常なものを感じました。脇役である金融機関で、細かいことをやるのではなく、あなたたちはもっとメインの場所で、日本や学問の世界でやることがあるだろう、ということですね。

 

米国では、ハーバードなどの超優秀学生の就職先としての金融機関人気はリーマンショック以降大きく萎んでしまったそうです。因みに経営コンサルタントなどについても然りで、今人気のあるのは社会を良くするためのNPO法人だとか、ベンチャー企業の起業なのだそうです。

お金儲けのためにお金を扱うことの空しさを世の中は感じ出しているように僕は思います。自分もそうだったし・・・・。

 

 

第18回 「読者の質問に答えて」・・・(②「良い大学」卒業でないと出世できない?)

 

読者の質問に答えるシリーズの第2回は、「良い大学卒」でないと出世できないのでしょうか? です。こういう質問は、会社などで働いたことのない人には真剣な質問、そして既に会社などで社会人として働いている人にとっては自明のこと、ではないかと思います。

但し、後者の方々の「自明」も、その人が属している組織の中でのシキタリや傾向によって判断しているだけかもしれません。今回は社会人37年、色々な会社や組織(数えてみたら、正規の社員・職員としてでは9組織、パートタイムや研修で3カ月以上働いたことを含めると13組織)で働いた経験から書いてみたいと思います。

 

まず「出世」という言葉ですが、とても曖昧なので、とりあえず組織において「権限が相対的に大きいポジションに就くこと。そしてそれは処遇(肩書、報酬など)においても相対的に高くなる傾向がある」と定義しておきましょう。正直、僕は本当はこうした「出世」については、昔から興味が薄く(それでも若い頃は多少ありましたが)、色々な経験の中で、仕事をすることの意味について考えるようになり、仕事の面白さがわかるようになるにつれて、出世のような外形的なもの(価値)ではなく、自分自身が考える価値、つまり自分自身が感じる「やりがい」だとか組織の中で「やらしてもらえることの範囲(自由度)」の方に興味が移っているのですが、そうは言っても若い人はそういうことにも興味があるでしょうから、そうした興味に沿ってお答えしたいと思います。

 

結論的には、「良い大学かどうかは、いわゆる『出世』には直接的には関係ない」と言えると思っています。ただ、「頭の良し悪しは『出世』に影響を与える」とも同時に思っています。

ちょっと分かりにくいようにも思うので、少しかみ砕いて書いていきましょう。

 

まず、僕が思う「頭の良し悪し」というのは、先天的な「地頭」だけではなく、「学ぶ姿勢」など後天的な努力によって形作られる、「考える力のあること」を指します。考えることを止めずに考え続ける人は、漠然と考えるのではなく必然的に最適解を求めて戦略的に考えるようになるでしょうし、思考の有効性を飛躍的に高める行為、即ち「実践」を躊躇なくするでしょう。逆から言うと、「ああでもない、こうでもない」とぐるぐると同じようなことを考えるのは頭が良い人のやることではなく(ノーベル賞を獲るような人は別です、念のため)、考えるために情報を集め、実際に行動も起こしながら「成長していく人」が本当に頭の良い人ということです。

こうした頭の良い人は、周りから評価もされ、仕事も任され、権限も拡大していくでしょう。世間的な意味での出世(例えば、組織で高い地位に昇っていく)は、運不運もあり、組織内でのポリティクスもあるので、保証されたわけではないのですが、そうしたことを除外して考えれば、基本的には権限も拡大して、大きな存在になっていくでしょう。

もし運不運やポリティクスで、そうはならないとしたら、頭の良い人たちなら、もう一つの組織の中だけで一喜一憂しているような馬鹿げたことはしないでしょうから、これからの世の中では転職したり、自分で起業したりするようになるのではないでしょうか。

 

次に、述べたいのは、「頭が良いこと(あるいは成長を継続して頭が良くなっていくこと)」が仕事で大事なのは、何でもそうですが、とにかく、どんなに困難な課題であっても、どんなに難しい課題でも、「最適解を導くことは可能である」という37年の経験から実感している「信念」があるからです。「正解」ではありません、「最適解」です。最適解は必ずあるのです。考えれば考えるほど、ベターなソリューションは見つかるのです。「そんなに簡単に言うけど、考えたって答えが見つからないこともあるよ」と言う人が多いと思います。そういう人に僕はいつも言います。「本当に、ちゃんと情報を集めたのか?」「現場を見たり、自分でやってみたりしてみたか?」「そういう努力を積み上げた上で、『頭が痛くなるほど』考えたか?」「24時間、脳の奥底の潜在的な部分でも良いが、どんな答えが最適か、考え続けたか?」と。

 

考え続ければ、道は拓けるのであり、最適解を求められるように頭を使えることが、本当に頭が良いことなのだと思います。

 

では、オリジナルの質問である、「良い大学」との関係はどうでしょう?

僕は、偏差値を始めとする大学の入りにくさに関する序列と、「地頭」にはある程度の相関はあると常日頃から思っています。しかし、もちろん良い大学卒だけが頭が良いわけではないですし、良い大学でない大学卒であっても頭の良い人はいます。良い大学だって昨今はOA入試だとか、スポーツ推薦だとか(スポーツ学生の方失礼!)、帰国子女入試だとか(左に同じ!)、色々あって、大学ブランドだけでは分かりません。

極めつけは東大卒でしょう。東大生は、沢山の科目のある受験をくぐり抜けてきたのですから、地頭が悪いはずがありません。東大卒で、「地頭の悪い」人間と言うのはあんまり会ったことはありません。でも、仕事が出来るとか、出世するとかいうことについては東大卒の旗色はあまり良くありません。一応マグレで入ったとは言え、僕自身東大卒なので言いきってしまいますが、東大卒の中でも、考え方が保守的すぎたり先が見えすぎて行動力がない、「こうあるべき」という考えが強すぎて柔軟性が乏しい、人は結構います。つまり組織や社会に馴染みにくい人がいるということですね。

 

逆に、有名大学卒でなくても成功している人たちの例には枚挙がありません。受験戦争に身を投じることの愚かさが分かり過ぎたり勉強以外のことに夢中で受験勉強しなかったという人も多いでしょう。また社会に出てから、必要に迫られて勉強をし出したり、勉強みたいなことではなく現場力や営業力、人間力でのし上がっていったったという場合も多いでしょう。

 

良い大学に入った方が良いのはあたり前です。なぜなら頭の良い人たちが多く、刺激を受ける環境だからです。しかしながら、月並みな表現ですが、良い大学を卒業しなくたって、本人の努力次第でどうにでもなります。大学はたった4年間でしかなく、社会人生活は40年とか、あるいはもっと長い期間続くものだからです。

 

 

上記、書き連ねてきましたが、時代は変わり、大学の序列といった概念や出世といった概念自体が徐々に陳腐になっていくようも思います。インターネットを使って無料で大学の授業が受講できるようになってきているように大学自体も今後大きく変化していくでしょうし、企業の側も、終身雇用や年功序列といった旧来の慣行もどんどん希薄化しており変化は激しいものがあります。一つの企業で徐々に頭角を現し、出世していく・・・などという「成功イメージ」自体も陳腐になってきていますし、全てが多様化の中、変化していくのです。

 

若い皆さんには、社会の現状について理解することが悪いとは言いませんが、それらはあくまでも現状の姿であって未来永劫続くものではないことを理解して欲しいと思います。どんな時代になってもサバイバルしていけるような逞しさや強さを身に着けられるよう、前向きに日々を生きていって欲しいと思います。

 

第19回「読者の質問に答えて」・・・(③「千葉ロッテマリーンズの改革」ってどうやったの?)

 

本コラムについては、前々回から読者からの質問に答えるという形式で筆を進めていますが、拙著「実践 スポーツビジネスマネジメント~劇的に収益力を高めるターンアラウンドモデル」(日本経済新聞出版社)に書いてあるのはわかるが、本を購入してちゃんと読むのではなく、手っ取り早く「要するに、どうやってプロ野球球団の球団改革をしたのか?」知りたい、という質問が多いようです。以下、プロ野球球団の改革の基本理念を2つ、箇条書きにしておきましょう。

 

①    プロスポーツクラブの運営を、1試合ごとの「興行」と考えるのではなく、継続的にクラブという会社の経営(マネジメント)=ビジネスと捉え、経営(学)のナレッジを活用する。<マネジメント発想>

②    試合で勝って優勝すること(だけ)が目的であり、勝てばすべてが解決するという旧来の考えを捨て、勝負だけにこだわらず勝っても負けても楽しいスタジアム観戦を実現する。<エンターテインメントとしてのスポーツビジネス>

 

①    を実現するためには、普通の会社経営と同じようにきちんとした組織体制を整え、ビジネスを展開しながら上を挙げ利益を増やし、以てチームを強化していくことが必要になります。

②    を実現するためには、

(ⅰ)スタジアムとチームの運営を一体化し、アトラクションを増やし、アメニティを向上させて観戦者が何度も来たいと思えるような魅力的な空間を作ること

(ⅱ)地域の誇り、地域に愛され地域活性化に貢献できるとなるような活動を推進し、地域のファンに支えられたクラブに脱皮すること

(ⅲ)CRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)、コンテンツビジネス(放映権、スポンサー協賛)など、マーケティング的手法を導入すること

(ⅳ)魅力的なスタジアム、魅力的なゲームを行い、マーケティングを推進するためにスタジアムへの設備投資を実施すること

 

などが重要です。

 

千葉ロッテマリーンズの場合は、2005年1月から始まった上記の改革のために、何十人ものスポーツ好きで「スポーツ産業を盛り上げたい」と考える志のある、ビジネス界のプロフェッショナルが改革に参画し、

・売上で言えば改革前の20億円を4倍の80億円に

・入場者数の大幅拡大

・チームの存在が千葉市、千葉県の「誇り」に

・結果として、2005年の日本一を始め、万年ビリ候補の球団が優勝を争えるチームに

 

したのでした。

 

僕は、マリーンズ改革の最初の1年半しかいなかったのですが、改革のフレームワークの策定や、チームとの一体化を果たすためのスタジアム運営権(「指定管理者」というステイタスです)の獲得、設備投資を行うための親会社との交渉などを行いました。

 

しかし、本当のところは、改革を実際に推進したダイナモは、野球界を世界基準に引き上げるための「侍ジャパン」プロジェクトを考案し、実際に推進している荒木重雄さんを始めとする同僚たちであって、僕の最大の「貢献」は、拙著の2009年の出版によって、マリーンズ改革のナレッジを世間に知らしめたことではないかと思っています。

これまで野球だけではなく日本中のスポーツチームの方々が拙著を参考にして、チーム運営の改革を図ってくれていることです。つまり「語り部」としての貢献ですね。

例えば、何十億円もの赤字に喘いでチーム強化費もままならなかったDeNAベイスターズが今年度黒字に転換、チーム成績の方も初めてクライマックス・シリーズに参戦できるという華々しい結果となりましたが、数年前DeNAがベイスターズを買収するときに拙著に書かれたマリーンズ改革の内容を同チームの経営トップ、親会社の経営トップにレクチャーしたことが思い出されます。もちろん彼らは様々な情報、ナレッジの中で自らの経営方針を立て、実行したということなのですが、同チームが実行した「エンターテインメント・ビジネス」「スタジアムとの一体経営(買収してしまいました)」はマリーンズ改革のエッセンスを参考にしたのかもしれません。

逆に言えば、まだ拙著が広く読まれているということは、日本のプロスポーツ界が未だ西欧のようなスポーツ産業化していない証とも言えます。

 

安倍政権は、2020年の東京オリンピック/パラリンピックを目がけて、それまでにGDPを500兆円から600兆円に100兆円アップさせることを標榜しています。そして、その100兆円の内、10兆円程度をスポーツ産業の拡大に期待するとしています。

2011年のスポーツ基本法の発布(何と、それまで日本では法律上「スポーツ産業」とか「スポーツビジネス」「プロスポーツ」というものは国の施策の範囲外だったのです!)、2015年のスポーツ庁の創設など、政府としては着々と「形式」は整えつつあります。

但し、東京オリパラの準備における現在の迷走など、スポーツあるいはスポーツ産業巡る状況は「課題多し」と言わざるを得ません。

「スポーツマネジメント」を大学教員としての研究分野の一つとしている者としては、こうした話については当コラムを10回書いても書ききれるものではありません。

 

しかし、これだけは最後に書いておきましょう。

 

スポーツという「ソフト」「コンテンツ」には人々の生きる活力を高める素晴らしい価値、力があります。最近は「社会課題の解決手段」(例えば、経済の活性化、地域の活性化、人々の幸福感の増進、教育のレベルアップなど)としても「スポーツ」が注目されています(この点については、最近パネラーを務めたパネルhttp://www.ustream.tv/recorded/92396136 でも発言しています)。

 

本コラムの読者の方にも、スポーツという万人が「素晴らしい」と感じる稀有なものについて改めて考える上で、今回コラムが参考になれば、と思います。

 

 

第20回「就活について again」

 

ちょうど1年半前の「第1回」に就活のことを書いたのですが、島村さんから、「もう一度就活について書いて欲しい」というリクエストをもらいました。前回は自分の昔々の経験を中心に書いたので、今回は今の就活、大学教員としてゼミの学生に就活サポートをしている上での経験を基に、少し書いてみることにしました。

 

まず現在の就活に関する状況について感じることを書きましょう。僕らの頃と根本的に違うことは、就活というもの自体が一大産業化しているということです。本HPも公務員試験に関する産業の一端を担うものではありますが、就活の場合は、公務員試験の比ではない大きな産業となっているわけです。グローバルな競争の下、法的に中々解雇ということができない日本企業の雇用において、少しでも良い学生を採りたいという企業の意欲は強く、一方やはり同じように少しでも良い会社に入りたいという学生側の就活に割かなければならないエネルギーは半端なく、双方のニーズに乗った形で就活産業は活況を呈していると言って良いでしょう。

僕もSPIというものをかじってみたことがありますが、数学で言えば順列組み合わせなど日常生活では使わない問題も多く、もう何十年もそういったことから離れている身としては「こんなのこの試験に合わせてちゃんと勉強しないと点取れないじゃないか」と苛立ったことがあります。実際、ネット上で行われているWEBでの試験を覗いてみると、どう見ても落とすための難問が並んでいる場合があり、もちろんこれで点を取れるのは本当に地頭の良い学生だな、と納得はしたものの、そんな少数の地頭学生以外が関門を通り抜けられない試験をやらせるのはどうなのか、と疑問に思ったのも事実です。

大学教育の場では、就活のために4年生の授業運営に支障をきたすということも起きています。教員としては、「学生の本文は学業なのだから、就活よりも学業を優先すべきである。就活は授業やゼミの時間のない時間でやるのが原則」と学生に言ってはみても、「でも、授業を休まなければならないことも出てくるから、その時は休んでいいよ」と言うしかありません。大概の大学生は、3年生までに卒業までに取得しなければならない単位は粗方取っておいて、4年生は就活と卒論・・・というのが実態です。

 

それにしても驚くのは就活の過酷さです。うつ病みたいな感じになる学生も珍しくありません。3年生の12月位から本格的に就活を始めて、大企業が公に求人活動を行える3月から就活戦線が本格化し、夏休みまでに、内定が採れていれば問題はないのですが、採れていない場合は結構精神的にキツくなるでしょう。だって、ずっと落ち続け、お祈りメールの山を築き、それでもエントリー・シートを送り続け、すっとダメダメを言われ続けるわけです。4年の12月まで決まらなければ1年間、ということになります。

今の学生は、一般入試だけではなく、AO入試だとか指定校推薦だとか、色々な制度があり、シビアな受験勉強を経験していない学生も多いですし、浪人して大学に入る学生も極めて少なくなりました。そういう挫折を知らない、なんとなくスクスク育ってきた学生が、人生で初めて、世の中の厳しい風に吹かれる期間が就活だとも言えるわけです。個人的には、通過儀礼として、こうした期間があることが、山あり谷ありの社会人生活直前にあるおいとがむしろ必要だとも思っていますが、やはり過酷であることには違いありません。大学には就職課があり、メンタルケアなどもやっているわけですが、4年生をゼミの形で預かっている教員としても、就活のサポート、精神面のケアなどはやらざるを得なくなっています。僕のような、ビジネスパーソン出身の教員なら対応もできますが、アカデミック一本で来た先生方には就活支援などというものは本当に別世界のことのようなものではないかと想像します。

 

就活生の緊張をほぐし、うつ病にならないためにも、僕が就活生に言うことは、下記のような言葉です。

①  どんな会社に入っても、よっぽど酷いブラック企業にでも入らない限り「同じ」。どこに入るか、よりも、入ってからどう自分で成長しようとするか。

②  企業の事業活動に都合の良さそうな人間を採るのが就活なのだから、落ちたとしてもその人の価値だとか、人間性とは一致しない。

③  一部上場企業でなければダメ、といった「べき論」は百害あって一利なし。かつての安定神話、大企業信仰などは無意味なのがこの時代。

④  同じく、学生に対して「君は将来何をしたいのか?」とか「将来のキャリアプランを言えなければ就活は上手くいかない」とか言う「べき論」もナンセンス。そんなに簡単に、学生の限られた情報の中で、本当にやりたいことやキャリアプランがイメージできるのは稀なケースに限定される。

⑤  日本中の求職数と求人数を比べれば圧倒的に求人数の方が多い。つまり選り好みさえしなければ、必ず入れる会社はある。

⑥  学生が殺到するのは一部の人気企業だけ。名前の知られていない優良企業もたくさん存在しているし、中堅以下の優良企業で「今年も採りたい学生数を確保できなかった」と嘆いている企業も多い。

 

36年間、企業社会で、色々な会社で働いたり、採用業務をやったりした経験からすると、就活という何だか得体のしれない「幻想」の中で、学生も企業も苦しんでいるようにも見えてしまいます。そんなに肩肘張らずに、学生には「どんな会社でも、とにかく入れる会社に入ってしまえば良いのだ」と、企業に対しては、「色々なレベルや特徴を持つ学生を、仕事のスペックに合わせて育成していく、成長させていくことも考えよう」と言いたいところです。

 

さはさりながら、就活で内定を採れなければ学生も困ってしまうので、一応、成功する就活ということにも触れておきましょう。最近学生には、就活4原則として

①  自分の潜在力に自信を持って、

②  ナメない

③  折れない

④  数を打つ(メゲずに会社説明会に沢山行って、沢山ESを出すこと)

 

と言っています。②以下は、同じく金融機関出身で久留米大学教授の塚崎先生という方の考案したものです。それに僕としては、①を是非付け加えたいと考えたのです。①はつまり、「今の君たち大学生のスキルや知識なんか、企業は全く信じていないんだよ。信じているのは、君たちの潜在力、つまり会社に入ってからの頑張りなんだよ」と言うことです。大学の偏差値だとか、「今の」能力なんかに関係なく、とにかく「会社に入ったら一生懸命働く、そして困難に立ち向かって自分の力で困難を克服して成長するんだ」という決意、覚悟があれば良いということなのです。公務員試験合格を目指す方にも、多少参考になることがあるかもしれませんね。

現に現在開発が凄い勢いで進行中のAI(人工知能)やIOT(全てがインターネット繋がること)によって、どんな職業が無くなるのか、どんなタイプの人間が重用されるようになるのか、今後どんな働き方になるのか、といったことが大きく変わる可能性が出てきています。とにかく、「自分の潜在力=やる気」「頑張ればどんなことだっていずれ克服できる」と信じることが重要なのです。

 

働き方という点では、最近ある本を読んで大変大きな刺激を受けました。

数年前に読んで刺激を受けたベストセラー「ワーク・シフト」(リンダ・グラットン著)の続編ともいうべき「ライフ・シフト~100年時代の人生戦略」https://www.amazon.co.jp/LIFE-SHIFT-%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95-%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88-%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%80-%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3/dp/4492533877/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1482474443&sr=8-1&keywords=%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88 という本です。この本では、70、80歳を平均的な寿命として、人生を「教育期間」「働く期間」「引退後の期間」の3つのステージに分ける考え方が、100歳が寿命となる時代(若い人は必然的にそうなります)ではワークしなくなる、すなわち2ステージ目が長くなりすぎて、従来の一つの会社で、一つのスキルでビジネスライフを終えるということが不可能になるということを前提にして、どう対処したらよいかの処方箋が書かれています。

著者は、社会に出て引退するまでの期間の「マルチ・ステージ化」(一つの会社で一つのスキルで一生を終えない)、ポートフォリオ・ワーカー(いくつも仕事に並行して従事する働き方)という考えを提唱しています。僕自身、意識的ではなく、必死にビジネスライフを続けている内に、ここで書かれている「マルチ・ステージ化」や「ポートフォリオ・ワーカー」的な人生を歩んできてしまったという思いがあります(と言うか、自分の過去と現在を肯定してくれる本に出会って「我が意を得たり」と喜んでいるのが本当かもしれません)。

いずれにせよ、常に成長し続け、自分を鍛えていかなければならない時代になったということなのかもしれませんね。

 

 

第21回「公務員について」

 

2年弱にわたる本エッセイの連載も、あと数回で終了しようかと考えています。島村さんから執筆を依頼され、ホームページの賑やかしにでもなればと考えて始めた連載ですが、自分自身の過去を書くことによって、次代は違えこそ、今の若い人の参考に少しでもなればと考え、これまで書きなぐってきました。

残り少ない回数で何を書くか・・・と考えたとき、そもそもこのホームページ、そして島村さんの事業に直接関連したことについては今まで何一つ書いて来なかったことに気づきました。そうです、「公務員という仕事について」です。後述しますが、僕自身、公務員という職業に関しては実は全く興味がなかったというのが本当のところです。

そんな僕ですが、「公務員」というもの、そして公務員が担っている使命、そうです、「行政」ということですね、そういったことに興味を持ったのは、10年弱前に「行政改革」についての本を手に取ってからでした。 その本は「NPM」(New Public Management例えばhttp://web.sfc.keio.ac.jp/~tama/esp-npm.html に詳しい)の考え方に則ったものでした。NPMと言うのは、「企業経営」の仕組み・知見を「行政」にも適用するものであり、例えば「スポーツ」の世界で「企業経営」の仕組み・知見を適用してきた僕の考えと、フィールドこそ違え、全く同じことだったのです。

最近政治の世界で話題になっている「説明責任」だとか「行政評価」なども、NPMの影響を強く受けているものであり、これは実は日本全国の行政、つまり地方自治体、中央政府においても従来の「お役所仕事」と揶揄され、改革が出来ない旧態依然の形から、改革する組織に脱皮しようとするための手法としてメジャーになりつつあるものなのです。

だって、皆さん最近、地元の役所や出張所などで申請などの手続きをやったことがありますか?もちろん、地域によって対応は色々ですが、昔と比べれば驚くほど対応が迅速で親切だとは思いませんか?役所も少しずつ変わってきているのですよ。「お役所仕事」のレッテルを貼って、切り捨てるようなことは出来なくなりました。

さて、2000年に最初の転職を行って以来、「行動」以外に自分を高めるものなし、と信じるようになった僕としては、NPMに関連したフォーラムにビジターとして何度か参加するなどして、色々勉強したのでした。そうしたフォーラム・勉強会のメンバーの多くは行政の研究者、公務員の方々、政治家・・・など行政の現状を改善するために同志的な繋がりの中で実践を試行錯誤しながら切磋琢磨し合っている仲間たちだったのです。

こうしたことがあったお陰で、それまでどちらかと言うと、「古臭くて、改革もできずにしょうもない人々」だという先入観のあった公務員、そして政治家に対して、あるいは行政や政治というものに対して見方が随分変わりました。そもそも大学では1~2年生の頃の教養課程では、経済学部と法学部の学生が混ざってクラスを形成しており、僕らろくすっぽ勉強もせず授業にもあまり出ないで麻雀荘にでも入り浸って金融機関などに就職するのがお決まりのパターンだった経済学部生と、日本のパワーエリートとして弁護士か国家公務員になって社会を動かそうとする法学部生には意識にギャップが大きく、経済やマーケットといったものばかり見て、政治の世界にはなるべく興味を持たないでいた自分自身も行政や政治に対してかなり興味が持てるようになったものです。

行政や公務員に対して、興味を持ち、勉強するようになったきっかけのもう一つは、今の大学に来た昨年度からです。

現在勤める埼玉工業大学のある深谷市(もちろん埼玉県です。埼玉県北部に属します)から大学に対して、「有識者会議」のメンバーを出して欲しいという要請があり、経営を担当している教員の一人である僕がこの有識者会議のメンバーとなったのです。

これは、現在安倍政権が重点施策の一つとしている「地方創生」の一環としての、「まち、ひと・しごと創成」http://www.kantei.go.jp/jp/singi/sousei/ について日本中の地方自治体に戦略策定と実行を要請したものであり、もっと具体的に言えば、少子高齢化の下、減り続けるであろう人口(生産年齢人口)の減少をどう抑制し、地方でどうやって雇用を増やし、住みやすい地方にしていくのか、ということを自治体の職員や政治家だけで考えるのではなく、有識者や市民の意見も聞きながら実行していくというものです。

ここで行われていることは前述のNPMのフレームワークの則ったものであり、したがって僕自身の知見=企業経営の知見にも合致したものでしたので、この有識者としての役割については、今年度も引き続き委嘱されています。

この会議に出ていて当初驚いたことが一つありました。

昨年度の「まち・ひと・しごと戦略」においては、当初「人口ビジョン」として、将来の人口動向について試算をし、それに基づいて人口減少の抑制策や地方創生策を策定するという流れになっていました。将来の人口動向については経営コンサルタントを雇って客観的、論理的な試算を行ったのですが、深谷市は首都圏にあるということもあって、全国の他地域との比較では相対的に最近までの人口減少については優位な状況なのです。しかし、首都圏の深谷市でも、日本全体の合計特殊出生率が2015年で1.45といった悲惨な数字をベースに客観的に試算をすれば「目くそ鼻くそ」で「2人の夫婦から1.45」なのですから、年を経るごとに人口が急速に減少していくのは明らかです。

僕自身は、こうした政治・行政の有識者会議だとか諮問委員会では、事務局が作った「べき論」を識者が不満を述べながら渋々了承する、ということなのか、だったら自分は反対意見を言い続けよう、と思っていたのですが(そして会議の席上でもそういうことを再三再四発言しました)、何と深谷市の事務局の方々が会議で出してきた数字は、きちんと客観的な根拠に基づいた減少の数字であり、それを抑制するために出された戦略の効果(つまり現象の抑制)についてもそれなりに頑張れば達成可能な数字だったのです。会議の席上、某政党の議員が質問しました「この数字で国は納得するのでしょうか?」つまり助成金の類が減らされることはないのか?という質問です。これに対して深谷市の職員「達」(一人ではありません、総意です))の答えは、「絵に描いた餅では意味がない。本当に意味のある試算、計画にしたい」というものでした。

この数字については事前に聞いていたこともあって(大体こういう会議の場合、根回しがあるものです)、僕が市の上記意見に対してサポートの意見を言ったことはもちろんです。

あとで調べてみると、人口ビジョンについて深谷市のようにリアリスティックに数字を示した自治体は実はそんなに多くはないようでした。各自治体の出した試算を合計すると今後でも日本は人口が増加するという試算になってしまうという話も聞きました。大概は、絵に描いた餅を描きながら、絵空事の世界で嘘を並べているのかもしれません。しかし、深谷市のような信念のある自治体も最近増えているのでしょう。時代は変わろうとしているのです。

大分長くなってきたので、深谷市の「まち・ひと・しごと戦略」http://www.city.fukaya.saitama.jp/shisei/keikakushisakuchosa/index.html については、多少戦略策定に関わった者として次回さらに解説したいと思います。

次回も書きますが、強調ちたいことはこういうことです。「公務員」という仕事、「安定した仕事」というだけではなく、今社会を良い方向に変えていく、極めて社会的な意義のある重要な仕事なのです。

 

 

第22回「深谷市のプラン」

深谷市にある大学に奉職してからまだ2年にしかならず、僕が良く知っている大学と最寄りの高崎線岡部駅を結ぶエリアは、138.37km2と比較的広い自然体から見ればほんの微小なエリアでしかないと言えるでしょう。したがって深谷市については、自分が見たり感じたりしていることではなく、有識者会議に出ていて見知った、あくまでも頭でっかちな理屈ですが、地方創生は地方公務員を志す方々にも興味があることだと思うので書いておきます。

昨年の有識者会議で、「産業振興」のベースとなる同市の産業構造の分析を議論していたときのことです。平成22年度の国勢調査によると深谷市の第1次産業就業者の割合は8.8%と全国平均の4.2%に比べて相対的に高いことへの言及があった際、ある委員から「第1次産業から2次産業へ、そして3次へと日本経済の産業構造が変化していったのに対し深谷市は依然遅れている・・・」と言ったコメントあったのです。経営の専門家としてはこの発言は少し修正が必要かと思い「経営という観点からは、『苦手なことを克服しようとするよりも、得意なことを伸ばすこと』を考えた方が良い。埼玉県は首都圏に位置し、東京という大消費地域に隣接している優位性を生かした方策を考えてはどうか。実際の成功例は少ないが1次(作る)+2次(加工する)+3次(自分で販売する)の『6次産業化』の必要性が叫ばれており、ここに注目すべきではないか」と発言しました。

ところで深谷市は現在「ふるさと納税」に力を入れています。ふるさと納税に関しては、返納品の高額化が問題になっており(折角ふるさと納税で税金が増えても、返納品が高ければネットの納税額は小さくなり、日本全体で言えば、地方税総額の減少=納税者の利得という形に終わります)、企業努力をしている地方が納税額を増やし、努力をしない地方が納税額を減らすことによって競争原理を働かせるという本来の目的から逸脱して、ふるさと納税の表面的な(ネットではなくグロスの)納税額競争のための返納品高額化という「手段の目的化」ではないかと、個人的には批判的に見ていました。そこでふるさと納税の担当者に「ふるさと納税を増やす目的は何か?」と尋ねたとき、深谷市の担当者はその明確な意図をきちんと論理的に説明してくれました。

ふるさと納税の返納品として地域の特産品をフィーチャーした商品をたくさん開発して切磋琢磨させる、

つまりふるさと納税を呼び水として「地域の特産品」、それも日本全国の返納品との競争の中で、「売れる」商品を作っていくということなのです。深谷と言えば、収穫量全国1位の「深谷ねぎ」が有名ですが、それ以外にも肉や、とうもろこし、ブロッコリーなどの野菜、そしてユリやコスモスなどの花も有名なのです。

また深谷市が今推進しているのは、花園地区のアウトレットパークの建設です。アウトレット自体は、近隣との客の取り合いが激化しており、それ単独では成功するかは良くわかりませんが、少なくとも「集客」という意味では極めて有効なツールです。この花園アウトレットパークには、ナショナルブランドの食品メーカーである「キューピー」が進出することが決まっています。その他農業に新しい風を吹かせている農業法人との提携なども行い、深谷市の戦略のベースとなる部品(ネタ)は随分揃ってきた印象があります。

僕が有識者会議で主張した6次産業についても、深谷市の「まち・ひと・しごと創成総合戦略」に採り入れられ、現在は実行段階となっています。農業へのフォーカス+ふるさと納税+アウトレットパーク の先にある「新しい時代の農業振興」「6次産業化」は本当に楽しみですね。興味がある方は、深谷市のHPの「市政情報」のところを覗いてみて下さい。http://www.city.fukaya.saitama.jp/shisei/keikakushisakuchosa/index.html

今後の社会を考えるときに、今旬の技術である「IOT」(全てのものがインターネット繋がる)と「AI」(人工知能)のことは外せません。農業の世界でも、農地にセンサーを付けまくって、作育状況をモニターしながら、人工知能が水をやったり、ロボットで収穫したり・・・これまで打ち捨てられた印象のあった農業の領域でも、新しいイノベーションが始まりつつあるのです。

IOTやAIのバシバシ活用する時代は、まだほんの少し先でしょうが、上記の戦略を採り入れて地域を変えようと、本気で推進しようとしている深谷市の職員の方々は頼もしく見えます。

深谷市の職員の方々を見ていると、「公務員はお役所仕事」的な偏見は過去のものになりつつあるようです。もちろん日本中の公務員の仕事ぶりがどうかを知ることはできませんが、少なくとも志のある若い人が自分の力を発揮できる余地は沢山あるように思えます。

次回が、この連載の最後の回にする予定です。色々書いてきましたが、最後の回は、「若い人へのメッセージ」みたいなことにしたいと考えています。

 

第23回「最後に若い読者へのメッセージ ~ 人生は奇跡の連続」

昨日(今回コラムの執筆開始は2017年3月12日・・・東日本大震災後6年と1日目)、長年の夢だった2つの行きそこなっている旅行目的地の1つであった(もう1つはリオデジャネイロ)「バルセロナ」への3泊5日弾丸観光旅行から帰国しました。「長年の夢」と言うのは、バルセロナ(サッカーチームのバルセロナ、通称バルサ)のホームスタジアムであるカンプ・ノウでのホームゲームを見ること、そしてアントニ・ガウディの建築群を見ること、の同時達成をしたいとの思いからです。40年弱の長きにわたり働き続けてきた自分への自分自身からのご褒美です。

ゲームは3月8日に行われたチャンピオンズ・リーグ決勝ラウンドのパリ・サンジェルマン(PSG)戦でした。こう書くとサッカーファンなら、「え、あの奇跡の一戦?」と驚くでしょう。http://www.goal.com/jp/news/175/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0/2017/03/10/33483442/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E7%95%8C%E3%81%AE%E7%A5%9E%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%8B%E8%A9%A6%E5%90%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%8815%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AD%E3%83%8A%E5%AF%BEpsg%E3%82%88%E3%82%8A%E5%8A%87%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%AF にサッカーにおける過去の数々の大逆転劇の内でも2位にランクされるというとんでもない「奇跡」の一戦については、サッカーファンならずともスポーツニュースなどでチラッと見聞きした人も多いでしょう。試合自体も奇跡だったですが、まさか自分自身がそんな試合にスタジアムで立ち会うことが出来たということが自分としては「奇跡」だったとも感じています。
サッカーに詳しくない方に、「なぜ奇跡なのか」をご理解いただくには、https://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20170309/560569.html あたりを読むのが良いのですが、かいつまんで箇条書きにすると
〇ヨーロッパ・チャンピオンズリーグは毎年開かれるヨーロッパのクラブチームの最高峰のチームを決める祭典
〇ヨーロッパの一番を決めるのだが、もう一つのサッカー先進地域南米の有力選手は皆ヨーロッパのクラブ所属なので、実質的な世界一クラブの決定戦と認知されている
〇最近の戦績等を考慮して、各国トップリーグの優勝チーム±アルファ(有力国は前季リーグの優勝国以下複数、有力でない国はリーグ優勝チームでさえ、もう一つのセカンドのチャンピオンシップへの参加となる)
〇バルサは言わずと知れた今最高のサッカー選手であるメッシにネイマール、スアレスを加えた「MSN」の超協力フォワードを初めとする世界最高の選手を集めた有力優勝候補
〇パリ・サンジェルマンは前季のフランスリーグ優勝クラブ。カタール王族資本による金満クラブの1つで、バルサ同様世界中から世界最高クラスの選手を集めている
〇両チーム共、強豪チーム揃いの予選リーグを勝ち抜いた8チームの1つ。どちらが今年の覇者になってもおかしくないだけの戦力を揃えている
〇決勝ラウンドは、ホーム&アウエーで行われ、2戦の点数の合計で勝ち抜け者が決まる。パリで行われた前週の4対1でPSGが勝利を収めているため、カン・プノウでバルサが4対0とすればイーブン、勝つためにはそれ以上が必要
〇カンプ・ノウでPSGが1点取ると、「2試合の点数の合計が同じ場合は、アウェイでの得点を2倍にして換算する」というルールのために、5対1(1試合目と同じ4点差)では、PSGの勝ちとなる。この場合、バルサが勝ち上がるためには6対1以上の点差が必要

ということです。

試合はバルサの世界的選手たちが鬼気迫るような頑張りを見せて何と3対0のリード、あと1点で奇跡のイーブン・・・と思ったつかの間、PSGのこれも世界的ストライカーであるカバーニにクリーンシュートを決められ3対1・・・「あと3点取らないと負けてしまう」と言う状況にバルサは追い込まれてしまったのでした。奇跡が見えてきた矢先の奈落への陥落、ファンたちも意気消沈、選手もミスをしだししました。
ここであきらめずに必死の活躍を見せたのが、ネイマールです。他のバルサの選手たちも決してあきらめたわけではありませんでした。残り17分で得たゴール近くでのプリーキック、ネイマールが蹴ったボールは、ゴールの左角に吸い込まれたのでした。
正直、この瞬間を僕は見ていませんでした。長旅の時差ぼけ+奇跡から遠のいた気分の緩みでウツラウツラしていたのです。ゴールが決まった瞬間のカンプ・ノウに詰めかけた大観衆の大歓声で目が覚めました、4対1。でもまだ2点取らないといけないのです。それからのバルサ選手のゴールへの執念は凄まじいものがありました。PSGはボールを奪取できてもバルサのプレッシャーで前に蹴るだけ、ゴールを目指して驀進するバルサの選手のドリブルになすすべもなくファウルで対抗するしかない状況でした。でもあと2点必要なのです。
バルサが圧倒的に優勢に攻めながらも時計は無常に進み続け、後半45分が経過、ついにアディショナルタイム5分が残るだけとなります。
ふと気づくと、フリーキックが連続する中、バルサのキーパーであるシュテーゲンは何と、ゴール前にずっとい続けているではないでしょうか。そしてペナルティエリアでの反則によるPKをネイマールが決め、終に5対1・・・。でももう5分が経過しようとしていました。
「あーあ、神様は、次にまた頑張れるようにギリギリで意地悪をする、それも人生、それもフットボールかな」と思った瞬間、前線に上がっているシュテーゲンのプレッシャーに端を発する反則でバルサにフリーキックが与えられます。これぞ、ラストプレー・・・ネイマールの蹴ったフリーキックにゴール前、オフサイドぎりぎりで飛び出したセルジ・ロベルトが高く上げた右足の甲にボールがあたりコースが変わったボールはゴールに吸い込まれた・・・・。

その後の自分の周りにいたバルサファンの熱狂、選手たちの熱狂、スタジアムを出てから家路を急ぐファンたちの余韻をいつくしむような興奮、ホテルに帰って見るTVに映し出される奇跡の事実・・・全ては夢のような時間の中での出来事でした。
以上、奇跡の内容について長々と書いてきましたが(本当はもっと書きたいことが沢山あるのですが、それを書いているととんでもない量になるので、以上サッカー素人の方にもわかってもらえるような最低限での記述でした)、これ以降、「奇跡」と「人生」についての多少の考察です。

僕自身、これまでの61年と半年の人生で、成し遂げてきたこと、失敗したこと、沢山沢山思い出があるのですが、その中で客観的見て、「奇跡」と呼んで良いと感じていることが2つあります。

一つは大学受験です。一応進学校の高校には通っていたもののスポーツ中心の生活で成績はせいぜい約450人中150番程度、生まれて一度も塾に行ったこともなく家庭教師についたこともなく、現役での大学受験はもちろん浪人覚悟。受験直前の駿台模試(当時がそれがスタンダード)では、受験する東大(文Ⅱ)は合格確率と呼べるような数字ではなく、早稲田政経が30%(だったと思います。現役最後の半年間は部活も終わり、かなり勉強頑張ったので、この程度の数字にはなった感じです)といった低空飛行・・・。ところが、結果は早稲田政経が合格、東大は1次試験(当時は1次と2次でした。進学校なのでクラスで東大受験者は多かったのですが、1次試験を通ったのは、2次も合格した2人(学校のトップクラスの2人)以外自分だけでした。
浪人時代も駿台予備校で各300人、3つある国立コースの真ん中のクラスで、受験直前の合格確率は30%程度(変化率の高い現役は低くても合格することはありますが、浪人の場合は厳しいものがありました)と、まああんまりはかばかしいものではなく、受かったときは(結構クールな性格なので)「え、受かったのか、奇跡かもね」と思ったものです。

二つ目は2年前の大学教授採用選考です。
大学の専任教員の採用、それも首都圏の大学には、希望者が殺到し凄い倍率になっています。僕が応募した「経営」の場合は、研究者も多く、僕同様実務家あがりの希望者も多く、その中で博士号はおろか修士号ですら持っていない僕が、しかも「40代の比較的若い人材が望ましい」という噂のあった(内部事情なのではっきりは知りません)選考の中で、コネもない自分が採用されたのは客観的には正に「奇跡」なのです。

多少分析してみれば、前者については
・好き嫌いのあまり激しくない性格なので科目数の多い国立の試験は万遍なく点の取れる自分は相対的に有利だった
・現役のときの早稲田も、1浪のときの東大も前夜にやった問題が偶々沢山出た
・高校在学中は部活で時間がなく本格的に勉強できなかったが、現役最後の半年、浪人時代に懸命に勉強してみて勉強の面白さに目覚め、「受からなくっても」勉強の本質を理解できたことで達成感があった(てそういう心境だったので気軽に、リラックスし試験に集中することができた)
・相対的に少ない勉強時間の中で効率よく勉強するために、信頼できる教材・勉強法(駿台予備校のコンテンツ)を信じて浮気することなく徹底的にやった<本HPとの関連で言えば、公務員試験合格のためにも信頼できる教材・アドバイザーの下で、ブレることなく試験勉強をしていくこと、となるかもしれません)
・苦手な覚えることは最小限にして、物事の本質を常に理解しようというその場しのぎではない応用の効く勉強を心掛けた

といったことですし、後者については

・専門分野に関する著書(単著)があること、教歴があること(大学での非常勤講師@多摩大学の実績)、博士号に匹敵する実務歴・実績があること、といった必要条件を満たしていたこと
・大学自体が入学志願者増大に向けて、(アカデミックな経歴よりも)実務経験のある教員を強く求めていたという幸運
・それまでの6年間ほどの間に、10以上の大学教員公募に応募をし、落ちまくっていたこと、そしてその経験を通じて応募書類の書き方などに工夫に工夫を重ねてきたこと(例えば、「大学教育とは何か?」「これからの大学教育に必要なことは何か?」といった根源的な課題について自分なりの考え、ソリューションが見いだせていたこと)
・度重なる転職の中で身につけてきた多種類の実務経験をベースに比較的小さな大学で求められる多種類の授業科目担当が可能なことがアピールしたこと(経済、財務、インターネットビジネス、地域経営、スポーツビジネス、ロジカル・シンキングを現在担当、これに加えて、金融、ビジネスモデル、商品開発といった科目も担当可能)
・企業勤めをしながらも長年にわたって、社内で勉強会を主宰してきた(10年以上の実績)ことから、選考科目の1つである「模擬授業」において我ながら「完璧」ともいえるパフォーマンスを示すことが出来たこと
・相手(大学)の立場に立った、自分と言う商品の価値についてのプレゼンテーションが出来たこと

ということかと思っています。

少し自慢めきますが(スミマセン、今回若者へのメッセージなのでお許し下さい)、
・それほど才能のない人間が、その事実をクールに見つめ
・自分なりの戦略を立て
・(ある期間、あるいはずっと)継続して努力をしていこうとしていること

が、自分なりのプチ奇跡の要因だったのではないでしょうか。失敗を繰り返し、ほんの偶に成功を手に入れ、でも大概は上手くいかない事柄に囲まれて、人生を送ってきて・・・そして60歳の還暦をとうに過ぎて、

・まだまだ元気、新しいことにチャレンジすることを意識しながら困難から逃げることなく
・一生懸命考え
・成長したい常に思って

日々を送っているのです。元々二流の人間でしかない自分が少しはましな一流半の人間になりたいとあがいているというわけですね。
さてさて、バルサの奇跡に話を戻しましょう。
彼らの奇跡の要因は何だったんだろう。ネットを見ると、4点差のアドバンテージを前提にしたPSGの守備的戦術の誤り、一方では左記を読み切ったバルサの攻撃的な戦術的な変更といった戦略・戦術的な分析が出ていて、サッカー愛好家(兼、一応現在もサッカー現役で東京都のシニア公式戦にも細々出場しています)には腑に落ちるのですが、あんな奇跡なのですから、若い読者向けに、もう少し示唆的なコメントをしておきたいと思います。

それは、「奇跡は起こるべくして起こる」つまり、準備だとか戦略だとか努力だとか強い意思だとか・・・そういったことにないところに「奇跡」は起こらない、ということです。左記の「必要条件」がなければ達成は出来ない、必要条件が揃っている中で幸運に幸運が重なったりして初めて必要十分条件が満たされる、逆に言えば、奇跡は起こらなくとも、奇跡が起こることを希って努力し続けることが重要ということなのです。

最後の回なので、もう少し論を進めましょう。それは「幸せ」ということです。皆さん、あなたにとって幸せってどういうことなのでしょう?ひとそれぞれ幸せの形はそれぞれだと思います。人によっては、富や名声を得ることかもしれませんし、家族に囲まれてささやかな生活を続けることかもしれません。中には燃えるような恋だとか、夢の実現のようなことかもしれません。

ひとそれぞれなので、一概に決めつけることは出来ません。ただ、僕がこれまで生きてきた中で、はっきり言えるのは、「幸せ」とは誰かが与えてくれるものではなく自分で獲得するものであり、人と自分を比べた優越感などの相対的なものではなく個人的に(人と比較することなく)湧き上がってくる感覚、お金などの即物的なものではなく極めて情緒的な感情・感覚・・・「あーあ、俺って幸せだな」というささやかな感覚なのではないかと思うのです。

最近読んだネット上の投稿記事で、慶応大学の前野先生という人が、幸福を感じられるための4つの要因というのを書いていました。それは(多少自分の感覚にフィットするように表現を変えて)
①自己実現と成長
②他人との繋がりと他人への感謝
③前向きと楽観
④独立(自律)とマイペース

の4つです。これを読んで、「そうか、そうなんだ」と僕は唸りました。この年になるにつれて、「自分は幸せだな」あるいは「幸せかも」と思うことが多くなっている、困難な状況に追い込まれている場合でもやはりひと時、ふっとそう思えることに「不思議」を感じていたのですが、その理由が腹に落ちた気がするのです。

つまり、上記4つ、今の自分の信条であり、日々の心の持ちように通じるものだからです。

さて、バルサに奇跡をきっかけにして、幸せについてなど、最後なので長く文章を書き連ねてきましたが、いよいよまとめに入る字数になってきたようです。

本コラムを通じて、若い読者に訴えてきたこと、それは「情熱と知性」の必要性ということです。情熱は、意思とか、行動力と言い換えても良いと思います。一方知性とは戦略など考えることです。
この両方があり、かつそのほどよいバランスがなければ、物事の達成はおぼつかないでしょうし、幸せな気持ちを感じることも少ないように思うのです。
繰り返しになりますが、若い皆さんには、一杯チャレンジして、行動して、失敗して、考えて、その経緯の中で幸せになって欲しい、幸せな気分になれる感覚を獲得してもらいたいと思います。

若い皆さんは今何をしたいと考えているでしょうか?公務員試験予備校のHPなので、公務員試験合格を目指しているかもしれません、それとは全く関係なく本コラムに偶々ぶち当たっただけなのかもしれません。今回、あるいはこれまで読んでいただき、どうもありがとうございました。

今回が本コラムの最後になりますが、本コラム執筆にきっかけをくれた島村さんに感謝するとともに、今後の皆さんのご健勝、長い人生におけるご健闘を祈って本コラムの結語にしたいと思います。

小寺昇二(sk300827@ja2.so-net.ne.jp)