最大公約数と最小公倍数


最大公約数と最小公倍数は、受験勉強の範囲を定めるために重要な理論です。

例えば、13と7の最小公倍数は、91ですが、最大公約数は1です。
素数は、1以外にはその数しか約数がないので、公約数となれるのは1だけです。
そして、公倍数は、各々を掛け合わせるしかありません。

また、12と8なら、最小公倍数は24で、最大公約数は4です。
さらに、16と8なら、最小公倍数は16で、最大公約数は8です。

このように、数字の組合せによって、最小公倍数は、二つの数から大きく離れる場合もありますが、大きい方の数と一致する場合もあります。

受験勉強が効率的になるか、非効率的になるかは、受験勉強を最大公約数と考えて臨むか、それとも最小公倍数的にやるかによって変わります。

ある科目で、いろいろな問題が出た場合、その問題について出題された知識をすべて暗記するのが最小公倍数的なやり方です。
数的でも、新しい問題ばかりをどんどん集めて、とにかく問題数を多くやろうとうするのが最小公倍数的なやり方です。
これに対して、いろいろな問題が出た場合に、その問題を正解するために必要なコア知識(それを知っていれば正解を出すことができる知識)を勉強するのが最大公約数的な勉強です。
数的なら、新しい問題が出ても、その類似した過去問と同じであると判別できて、そのカテゴリーに属する問題だけを勉強するのが最大公約数的な勉強です。

公務員試験の知識問題では、最小公倍数的な勉強をすると、苦労することが多い。
例えば、思想で内村鑑三について、次のような知識が出題された。

C 
「日露戦争に由て私は一層深く戦争の非を悟りました、・・・・・・戦争は人を不道理になすのみならず、彼を不人情になします、戦争に由て人は敵を悪むのみならず、同胞をも省みざるに至ります、人情を無視し、社会を其根底に於て破壊する者にして戦争の如きはありません、戦争は実に人を禽獣化するものであります。」
彼は、誠実で正しい日本人と日本の在り方を生涯追い求め、「武士道の台木に接木されたるキリスト教」を唱えたが、それは社会正義を重んじ、利害打算を超越して真理のために戦うという武士道精神に根ざす日本的キリスト教であった。(平成23年国家2種36番)

これが内村鑑三の言葉であり、また、内村鑑三についての客観的な記載であるかどうかを判断しなければならない。

また、次のようにも出題された。
3.内村鑑三は、信仰が「実験」すなわち実体験であることを強調し、キリスト教の神の前に立つ一人の人間として内面的独立と平等を解くとともに、教会や儀礼を排した聖書の言葉による信仰を重んじて無教会主義となった。(平成20年国家2種37番)

このいずれも正解の選択肢であるが、これだけ長い文章について「正しい」と判断するにはどの程度の知識が必要だろうか?

最小公倍数的に考えれば、このすべてを暗記しておかなければならない。

たった一人の思想家について、これだけ異なる局面から、知識を示すことが可能なのだから、これを「カバー」することなどできるはずはない。

となれば、最大公約数的に考えてみてはどうだろう。
二つの選択肢に共通することは「キリスト教」だけである。
「内村鑑三」=「キリスト教」と覚えれば、それで済むということにもなる。
勿論、限定はかけておかなければならないから「近代日本の思想家(=江戸末期から明治時代にかけての日本の思想家」と出題された場合に、限定しておけばいい。

人文科学について、国は「すべてを知っている」と考えて良い。
妥当な知識、立証可能な知識とその客観的根拠について、国はすべてを知っている。
言いなおせば、「出題者は正解を決めることができる」とした方がいいだろう。
何を正解とするかは、出題者のさじ加減で決まる。
その相手に対して、いい加減な知識(見解)しか持たない民間教育機関や出版社がまとめた知識などでは歯が立たないということなのだと思う。

そもそも「教科書検定」なんて制度が無ければ、統一性を保てないような学校教科書に書かれていることを重箱の隅まで勉強することは無駄以外のなにものでもないだろう。
公務員試験は、入社試験であることにかわりはない。
ならば、試験官の言うとおりに考えて勉強すればそれで受かるでしょう。
わざわざ反対的な知識を仕入れて雑音で苦しむ必要はない。
そういうのはキャリアに任せておけば良い。

社会科学についても同じである。
法律の有権解釈権は内閣法制局にある。民間が何を言っても、「通説」が何かは、公務員試験においては役所の管轄だ。

公務員試験の正解は、公務員試験の問題の中にしかない。
そこから経験論的に、何を学習するかを考えるべきなのが公務員試験の勉強法であり、
演繹的に学習することは、学習範囲が膨大になり、かつ、不確定性が増すだけなのだと思う。

最小公倍数は演繹的な学習法の比喩として考えてもらえれば良い。「重箱の隅をつつくような勉強法」とは、まさに、すべてを知らんとする、無尽の極みといえるかもしれない。これに著者の歴史的見解や学校教科書の知識が入ってしまったら、もう、宇宙の果てを探しに行くのと同じことなるだろう。言い換えればタイムマシンでその時代に行って実際に検証するしかなくなると言ってもいいかもしれない。

受験生は競争相手が全てを知っていると考えやすい。
知らない知識が出ると、正解と思って選択するのが不合格者の典型的な行動パターンなのも、これを根拠づける。
「受かる人間はすべてを知っている」と思うのだろう。だから、それに追いつくためにはすべてを知らなければならないという強迫観念に囚われる。これがコンプレックスの一つであることに疑いはないだろう。

日本の受験勉強の世界で金メダルを東大とするなら、東大生にはコンプレックスはない。「試験勉強だけは勝者」と自負しているからだろう。それが思考の広がりをもたらすことは、先輩や同期、そして後輩たちを見ていればわかる。

この「コンプレックスの無さ」が、受験勉強には大切なのである。
合格した人間は、「こんなもんだろう」という感触を持つので「力み」がなくなり視野が広がる。
「まず問題を読もう」という姿勢が高得点を出させる。
「正解は試験問題の中にしかない」という考え方が、「さっきまで見ていた参考書の記載を忘れないようにしよう」という人と大きな差を生むのが試験と言うものだろう。

参考書や問題集の解説に正解を求めたりしても、それは本番では「解説を書いた人間に代わってもらう」ようなものだろう。自分で考えて正解を見出す努力が実るのが合格だ。

所詮、短期間で合格できる試験なのだから、わざわざ、人の意見で考える癖をつける必要もないし、また予備校アタマになる必要はない。

最大公約数を勉強しておけばいいだろう。
それが経験論的な勉強であり、また、コアを見つける勉強法ということができるだろう。
結局、正解は問題の中にしかないのだから、それを見つける練習をするのが良い。
分厚い参考書や問題集を買って安心するよりも、薄い問題集を擦り切れるまで復習することが公務員試験や大学入試では求められていると言えるだろう。

勿論、優秀な受験指導者や予備校は、そうして最大公約数を求めてきたつもりかもしれない。
しかし、公務員試験では、そうした優秀な人間を私は知らない。

知識の膨大さと、多様さに混乱し、大学で勉強したことや、専門書に道を求めようとしたのが、市販の参考書や、テキストを見ると良くわかる。
しかし、結局、就職試験では、頭の良さを試したいだけだからパズルのように考えれば、どの科目でも道は開けるのだと思う。

何年か前に特別区から国会図書館まで制覇した学生が、知識問題も判断推理ですね。と笑っていたのが印象的だった。


知識にしがみつくか、それとも現場判断で乗り切るのか。
受験勉強は、その人の「人となり」を示すいい機会だと思う。