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集団討論の間違い

 
集団討論とは、単に討論力を見るものではない。
「朝まで生テレビ」をイメージしてはいけない。あれは「出演者の個人的信条が暴露される番組」としては面白いが公務員試験の集団討論とは別次元のものだと思う。
  
集団討論は集団内でのリーダーシップ・説明力・説得力だけではなく、個人の問題解決力や柔軟性を試すものでもある。
  
討論形式は、最初に参加者(受験者)が意見を表明し、その意見を聞いて、時間内に結論にできるだけ近づくというものでしょう。
当初意見において全員が同意見であれば、問題は存在しないことになるが試験はそれでは評価ができないので、今度は問題を発見しなければならない。
(こういう場合は稀有であり、出題者の失敗だが、問題発見力が試されるということはまちがいない。)
  
集団討論試験では「結論を得ることに貢献すること」が評価される。 
一般的には
① 当初意見から全体の意見の総意(結論となり得べきもの)を早期に発見する 
② 結論とは大きく矛盾する主張をする発言者を発見する
③ 矛盾点を検証し、論理的に説明し、説得し、結論へと誘導する。 
と言う流れになっているようです。
  
これは参加者全員の討論レベルが低く、自己の意見を結論にすることで合格できると誤解している受験者が多い状況には最適です。
また、「総意」が自分の意見と真逆の場合、変説することがマイナス評価になるのではないかと誤解している場合や、
「総意」が見えずに自分の意見に拘泥する受験者を見捨てることがプラスの評価になると誤解している場合も同じです。
 
討論には①全体としての成功と、②個人の成功の二つのレベルがある。 
①は、議論が尽くされ、全員が協力して問題を解決する努力と成果が認められること。
②は、結論を得ることに対して「協力する度合い」が大きかったこと。
である。
①の最もわかりやすい例としては、「全員が最初に表明した意見とは全く違う意見が結論となる」ことである。
 
結論の是非は関係ない。過程こそが重要だと考えた方が良いでしょう。
 
議論が尽くされたからこそ、最初と全く違う意見が生まれたのであり、これは、まさに「討論の成果」であり、
「参加者の協力によって新たな結論が得られた」ことは「参加者の相互理解・信頼に基づいた協力が得られた結果」ということができる。 
討論集団は全体として高評価となり「チームワークができる集団」という評価されれば、得点も高くなることが予想される。
 
②協力の具体例として、短時間での試験では次のような対応がせいぜいだと思う。
 
受験者が6人で、消費税の是非について当初「賛成2、反対4」の集団を例として取り上げれば、
「制限時間内に結論を得るためには」集団の結論としては反対に誘導すべきだろう。
自分が賛成側ならば、反対者の意見を披露してもらって、納得できそうなものが出た段階で反対に転じれば良い。
逆に賛成2、反対4で自分が反対なら、賛成者の意見を聞き、一番脆弱なもの(反対に転じやすそうな者)を賛成側に導けばいい。
また「3:3」なら議論の趨勢を見極めた段階で「多くなりそうな側」に立ち、反対側を説得するべく行動することになる。
しかし、たとえ「1:5」(自分が1)でも他者が脆弱な意見で簡単に論破できると感じたなら自説に誘導することも良いかもしれない。
ただ、失敗のリスクは高いし、採点者からどのように観られるかは未知数なので、公務員より民間企業向きの行動だろう。

「自分の意見がない」と思われるかもしれないが、あくまで試験なのだから「自説=自分の心情」という拘泥の仕方は、採用ではマイナスに働く。 
例えば原発の是非について出題され試験集団の多数派が賛成の場合、これに頑として反対するのは「それが自分の信条」だとしても評価はマイナスに働く。 
簡単に言えば、「職務上の心情」みたいなものを試されているのであって「公務員としては賛成するが個人としては反対」みたいな「二枚舌」を要求されているのかもしれない。「大人の対応」という奴ができるかどうかなのだろう。 
「所詮は試験」と割り切れるかどうかも試される。

例えば、織田信長が「戦乱の世を鎮めるために、天下を統一する。」ということを考えた場合、
「戦乱の世を鎮めるため」と「天下統一」は「天下統一」のためにたくさんの戦乱が生み出されるので、合理的な目的と手段の関係にはないと考えることができるから、集団討論では「天下統一」は諦めなければならないことにもなる。
「戦乱の世を鎮めるため」にすべきことは、対話なのかもしれない。

こうなってくると、討論能力などではなく、その人の考え方・思想や柔軟性が試されると考えた方が良い。
  
しかし本番の試験では誰かが「合格」を勝ち取るために「他者の意見を変えさせる」ことに奔走する。
「納得して意見を変える」のも「納得させて意見を変えさせる」のも評価は同じになるにも関わらずである。
自説に拘泥して、勝敗を考える限り「討論の成果は得られない」。 
 
問題解決力とは「より良い結論」を得るべく、出題された課題に内在する問題点を参加者全員で究明するための作業を行う能力のことである。 
他者のアラ探しばかりをして自説を力説することは問題解決力ではない。
真の問題解決とは、まず、課題の分析と情報(意見)の整理・集約にある。DVD講義でもそれを中心に(それだけを)話している。
30~50分程度の討論時間で、それ以上をやろうとすればリスクが高すぎるだろう。
実際の試験では、無知で冷静さを欠き、無秩序を産み出し、状況判断もできずに時説(自説)に拘泥するだけの人がいるというのが、私の見てきた「集団討論」だった。
そうした人は、集団を混迷の果てに連れ去るだけなのかもしれない。
こうした集団は、失敗の良い例であり、結局、全員が同評価(同点)となり「集団討論の合否は討論以外の点数で決まる」ことになることは、参加者も気付いているでしょう。
 
となれば、「差がつく」貢献の仕方は「事後的」にならざるを得ないのである。

 
最終的に、誰が採点しているのかを良く考えなければならない。
もし「行政のムダの解決策は?」と出題されたら、自分が公務員になった時のことを考えてみて欲しい。

自分のアタマで考えてはいけない。自分が勉強したくないときに、親から、勉強しろと言われたときの感情を思い出すのが良いだろう。
「親」が受験者で、「子供」が試験官たる公務員である。
「わかっているけど、予算が限られていて優先順位がより高い政策がたくさんある。」というのが「採点をするエリート公務員たち」の日々の感情ではないだろうか?

そんな彼らの面前で「マスコミで年中言われているような批判」を展開したらどう映るのだろう?
「マスコミ論調」で、自分の意見を、さも訳知り顔で、その辺のPTAのように披露している受験者が多い中で、
「でも、行政に対して、批判をするためだけに批判をしている人もいるよね。そういう人の行為が、結局、健全な納税者の利益を害しているって側面はないのかな?」
なんて、静かに発言すれば、それ以降、何も発言しなくても、他の受験生と違った評価をもらえる可能性は高くなると思う。

結局「仲間にナレソウナ人」を探すのが公務員試験の集団討論だと考えることもできる。

不合格者の言っていることは心情としては理解してあげたいが、そもそも問題の本質を見誤っているのである。
問題の本質が何かを考えるよりも、反対派、与党的、体制的な意見を貶めることが「正論」「正義」であると考える。

集団討論では、そうした自己中心的な受験者の挑発が全体を不合格の奈落へと落としていく。
冷静に状況を分析して、対策を練ることが合格につながると指導してきました。

大切なのは、「人の意見を良く聞くこと」と「自分の意見に拘泥しないこと」です。

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